うしろめたさ

覚書:「うしろめたさの人類学」

皆さんは日常において「うしろめたさ」を感じることはあるだろうか。
私はある。例えば、混んできたカフェでおかわり自由のコーヒーをおかわりしながら本を読んでいるとき。誰かが席を探しに来ていることに気がついても、その席を私は動かない。そんなときだ。

本書では、この世の中がもっとよい社会になるにはどんなことが必要なのかを、贈与や交換といった行為、国家や市場といった立場など大きな概念から日々の暮らしを見つめ直す形で紐解いている。そして、よりよい社会になるための1つの意見として「うしろめたさ」について語られている。

本書における「うしろめたさ」は私が常日頃意識している「自己満足のやさしさ」と繋がりがあると思った。

例えば、先ほどの例で、私が席を探す人の様子を見て、私が席を譲ったとする。その行為は誰かへの「やさしさ」であるが、同時に「席を譲らないと自分が落ち着かない」だとか「他の人が譲らない中譲った自分」だとかそういうものを得たかったからでもある。つまり「自己満足のやさしさ」だ。

きっと「うしろめたさ」を感じた人は自分の満足の行く範囲でそのうしろめたさを打ち消すために「やさしさ」を発動する。私はこの行為を行っているとき、真のやさしさではない、とある程度自覚的であるべきだと思っている。

何故なら、そういった「自己満足」とは切り離された本当の「やさしさ」も人は兼ね備えていると思うからだ。

例えば、私にとってそれは仕事でつらそうな先輩を見たときに何かを思案する前に「手伝いましょうか」と声をかけているときだ。このとき私は「うしろめたさ」や「自己満足」からは無縁の状態でその声を上げている。これも分類すれば「やさしさ」に入るはず。

私は本書を読んで、むしろ、うしろめたさから生まれるやさしさではない、自己満足を含まないやさしさについてより考えたいという気持ちになった。

人は常に何か納得の行く理由がなければ行動を起こしたがらない。
やさしさも同じで、自分のなかで同情の気持ちや、やさしくする理由がないと、発揮されにくかったりする。

でもそうじゃないやさしさもたくさんある。
でも、それが起こる条件が分からない。
だから、条件の分かる「うしろめたさ」からつながるやさしさが今着目されてしまっているんじゃないかと思った。

無論、自己満足のやさしさを否定したいわけではない。自己満足が理由だろうと結果、誰かにとってよいことならば素敵なことだと思う。

だけど、そうじゃなくて、
もっと何も含まないやさしさ、についてもみんな真剣に向き合ってみてもいいんじゃないか

そんなことを考えた一冊だった。

ほんや徒歩5分店員

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