第2回入塾審査完了のお知らせ

(書き手)事務局

 3月末まで募集を行っておりました、翻訳塾 第2回塾生募集の審査が本日までに完了いたしました。年度末のお忙しい時期に応募してくださった皆様に改めてお礼を申し上げます。合格者へは既にメールでお知らせしております。5月からどうぞよろしくお願いいたします。

 審査に応募された方々、また、当塾へ関心をお持ちの方々に読んでいただきたく、また、ご参考にもなるかと思い、ご本人の許可を得て、課題②(「幸福の子孫」の考察)の審査で最優秀となった答案を以下に掲載いたします。なお、提出時は縦書きでしたが、Web画面での都合上、横書き表示にしております。

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 「わたし」の不可逆な進化と歴史

 イーディス・パールマンの小説『幸福の子孫』は「わたしは八歳だった。」という一文から始まる。この一文からは、二つの情報を読み取ることができる。一つ目は、この小説は一人称であるということ、そして二つ目は、現在の「わたし」はすでに八歳ではなく、これから始まるのが「わたし」の過去の話である、ということだ。
 小説の形式が一人称であるということと、この小説が描き出すものは分かちがたく結びついている。廣野由美子氏は『一人称小説とは何か 異界の「私」の物語』(ミネルヴァ書房、2011年8月)において、一人称という形式がもたらす効果のうちの一つとして、ロシア・フォルマリスム批評で用いられる「異化作用」を挙げ、特に動物や怪物などの「異界の語り手」による物語は、我々の生きている世界そのものを「見慣れないもの」として異化し、新たに提示することができるとしている。『幸福の子孫』では、八歳だった「わたし」の、ある一日の出来事が繊細かつ静謐に描写されていくが、このごく短い小説における物語性は、語り手である「わたし」が八歳だった「わたし」を、どのように現在の自分から「異化」していくかという、まさにその語る行為にこそあるように思えるのだ。
 この小説には語り手である「わたし」の現在を窺わせる文章がすくなくとも三カ所あるが、それらが物語にどのような作用をもたらしているのか、順番に見ていこう。最初に語り手の「わたし」の現在が顔を覗かせるのは、父について描写する、次の一連の文章だ。

 父は、社会的に言えば町医者と呼ばれる内科医だった。(中略)石けんより葉巻のにおいが染みついた太い指は、古い黒鞄とヴェロクロで接着されているように見えた。ただ、これは七十年前の話だから、ヴェロクロが発明されたばかりで、その名を耳にしたことのある者はいなかった。
(『蜜のように甘く』亜紀書房、イーディス・パールマン著、古屋美登里訳、2020年8月)

 スイスでジョルジュ・デ・メストラルがヴェロクロの研究を開始したのは1940年代後半のことなので、その頃のことを「七十年前の話」であると語る語り手である「わたし」の現在は、読者である我々の現在と重なっていることが分かる。ここから始まる一連の文章の巧みさは、父を語るように見せながら、実は最も多くのことが語られているのは、現在の「わたし」のパーソナリティであるという点だ。
 八歳だった頃の「わたし」は、父について、「お父さんはなにひとつ忘れないんだ」と思っていた。しかし、「長い歳月のあいだ」を経た語り手の「わたし」は、父が「すべてを知っていたわけではなかった。」と振り返る。「人との会話で自分の知っていることだけを話す人は――自分がなにを知っているのかわかっている人は――いつでも並外れて豊かな知性の持ち主に見える」という一文には、父に対する批判的な視線を読み取ることができるし、最後に父の知っている事柄を並び立てる文章は、かえって彼の知識の空白部分をことさらに際立たせている。八歳だった「わたし」とは全く違う感情でもって父を見ている現在の「わたし」が、読者の前に姿を現し、そして八歳の「わたし」の一日を描写する小説に、突如として「わたし」が現在に至るまでの「七十年」という歴史が組み込まれる。「わたし」の歴史は、この小説における語られない空白の部分だが、先に指摘した父の知識の空白を際立たせる文章と同じく、この空白は周囲の情報が詳細に描き込まれることにより、存在感と厚みを増していく。そして語り手の「わたし」が現れる二つ目の文章では、この歴史が、「進化」という言葉と結びつくことになる。

わたしは当時、ダーウィンのことは何も知らなかったけれど、父がそのたぐいのことを話してくれたことがあった。以前、地球にはなにもなかったのに、いまはこんなにたくさんのものがある、でも、いまわれわれが見ているのは、なにか別のものの子孫なんだよ、鈴懸の木は羊歯の子孫で、雀は翼竜の子孫で、ワークマンさんはチンパンジーの子孫なんだ、と(父さんは最後の言葉は言わなかったけれど)。進化や自然淘汰ということが起きたのだ。

 この文章はタイトルに繋がるものだが、同時に先に指摘した「わたし」の空白の歴史に、「七十年」という具体的な年数以上の広がりを与える効果も持っている。羊歯植物が繁栄を極めたのは約三億年前の石炭紀で、翼竜は白亜紀に絶滅し、ヒトがチンパンジーと分岐して直立二足歩行をし始めたのは約七百万年前のことだ。八歳だった「わたし」と語り手の「わたし」は、ここでその進化の歴史のなかに位置づけられる。そのことは、語り手の「わたし」が現れる三つ目の文章であり、小説の最後の一文でもある次の文章で、より明確に示されることになる。

 その日のことをわたしは決して忘れないだろう。あれほど幸せだったことはそれまでに一度もなかった。あれほど幸せだったことはそれからも一度もない。
 
 これまで空白にされてきた語り手の「わたし」の七十年という歴史が、最後の一文で一気に埋められる。タイトルの「幸福の子孫」とは、語り手の「わたし」のことだったのだと、あたかも叙述トリックが明かされたように読者は知ることになる。「わたし」を傷つける悪意のある他者など何処にもおらず、良き隣人の心臓に異常はなく、「いつも危険からわたしを守ってくれるはず」の父は、期待した通りに「わたし」を捕まえてくれて、「ふたりの心臓がひとつ」になるほどに、自分のすべてを信じて預けることが出来る。そういう一日は、二度と「わたし」の歴史には訪れなかった。「進化や自然淘汰」によって、語り手の「わたし」は、八歳だった「わたし」とは全く別の生き物になったのだ。先にダーウィンの進化論について触れていることで、この変化は単なる人間の成長によるもの以上の致命的な断絶として浮かび上がる。八歳だった「わたし」は、羊歯や翼竜やチンパンジーのように、語り手の「わたし」とは「なにか別のもの」で、これまで読者が読んできた物語は、単なる回想ではなく、今はもう存在しない絶滅した(あるいは種が分かれ、二度と交わることのない)生き物の話だったのだということが突き付けられ、小説は終わる。
 『幸福の子孫』において、進化や子孫という言葉が切なく響くのは、そこに不可逆性と連続性が同時に含まれているからだ。ダーウィンの進化論や、父がすべてを知っているわけではないことをすでに知っている語り手の「わたし」が、それらをなにひとつ知らなかった八歳の「わたし」を、自分から遠く離れた「異界」のものとして、「幸福」と名付けることは、自分の現在を「幸福」とは別のものとして切り離すと同時に、自分の歴史を「幸福」に連なるものとして捉え直すことでもある。最後の一文を、語り手である現在の「わたし」の幸福を語る言葉として読むか、不幸を語る言葉として読むかは、解釈が分かれるかもしれない。しかし、やはりこの小説は「幸福」の物語であったと言うべきだろう。たとえ二度と戻れないとしても、「幸福の子孫」であることは、すくなくともそうでないよりは、「幸福」に近いのだから。(本文二九七九文字)