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『人と物2 花森安治』 – 日めくり文庫本【10月】

【10月25日】

 そこでもう一つ考えられることは、その茶碗に、いま驚くほどの高い値がついているということである。なるほど、利休が美しいと見た茶碗だけあって、たしかに、いい茶碗にはちがいないと思うけれども、いまの値段は、果して、その美しさに対してつけられている値段であろうか。逆に言えば、もしそれと同じような茶碗が他にもあったとして、果たして「ととやの茶碗」と同じような値が付くかどうかということである。いまの「ととやの茶碗」の値段は、いわゆる骨董的価値、つまり利休の使ったものだからという、故事来歴因縁に対してつけられているのではないだろうか。
 このことを別の言葉でいえば、今その茶碗を見るひとには、利休ほどの眼がないともいえるのである。もし利休がいま生きていたら、おそらく、そんな高い値段のついた茶碗を買おうとも思わないだろうし、使って見ようとも思わないだろう。
 おそらく、いまの世に利休が生きておれば、場末の瀬戸もの屋か、大道の均一たたき売りの中から、美しい器を見つけるのではないかというような気がする。
 そうすると、後世のひとは、この茶碗に、「たたきの茶碗」いという名でもつけて、また何万何百万金の値で取引されることだろう。
 上手にお金を使うということは、利休の持っていたような眼を、いまのボクたちも持つことではないだろうか。「ととやの茶碗」は、ボクたちの身のまわりに、いくらでもころがっているような気がする。自分が見て、自分で美しいと思うものなら、その茶碗は、たとえ一個五円の品であろうと、そのひとにとっては、「ととやの茶碗」である。もちろん売って何百万金にはならないだろうが、そのひとの暮しのなかに生きているかぎり、何百万金の器よりは、はるかに高い値打ちを持ちつづけることだろう。

——『人と物2 花森安治』(MUJI BOOKS,2017年)83 – 85ページ

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