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『注文の多い注文書』 – 日めくり文庫本【1月】

【1月31日】

 前置きが長くなりました。本題に入りましょう。
『ナイン・ストーリーズ』は、サリンジャー自身が二十九歳の自作の中から九編を選んで一冊にした短編集ですが、私共はこの本に隠されたある重要なメッセージを解読することに成功しました。まず九つの原題を横一列に並べ、アルファベットを数字化します。するとある一定の規則とキーになる数字が現れ、更にそこに特殊な細工を施すことにより(申し訳ありませんがこれ以上は詳しくお話しできないのです)、一つの公式が浮かび上がってきます。この公式は各短編に対し、固有の数字を指示しています。あとはもう一つ教えてゆき、特別に選ばれた一文字に丸をつけるのです。
 丸印のついた文字を順に並べると、下記のようになります。
 e、a、r、s、t、o、n、e、s
 イヤー・ストーンズ。耳の石。
 耳の石とは何を意味するのか。この疑問は長い間、悌子派部会における最大の研究課題でした。他の作品からあぶり出された秘密たちは、ある意味もっと単純なのです。サリンジャーの人間くささがそのまま伝わってくるような、素直さがあります(繰り返しになりますが、秘密の内容についてはご説明できないこと、ぞうぞお許し下さい)。ところが耳の石だけは別でした。
 イヤー・ストーンズ。
 私共は何度もその言葉を口に出し、紙にも書いてみました。そうするだけで、なぜかどこからか不吉な影が差してきそうな気持に陥りました。もちろん、どこかで何かを見落としたり、間違いを犯した可能性だってなくはありません。ですから、縄梯子使っての作品解読を更に濃密にし、洞窟をすり抜けるあの感覚を繰り返し味わってみました。中には健康を害する会員まで現れたほどです(貧血、蕁麻疹、関節痛、脱腸、鳥目等など)。しかしどんなに努力しても、得られるキーワードは、耳の石です。ただ一つこの秘密だけが、どこにも行き着けず、宙に浮いているのです。

「case2 バナナフィッシュの耳石 注文書」より

——小川洋子、クラフト・エヴィング商會『注文の多い注文書』(ちくま文庫,2019年)61 – 62ページ


「バナナフィッシュにうってつけの日」(A Perfect Day for Bananafish)は、1948年1月31日に「ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)」誌で発表されたJ・D・サリンジャーの短編小説。
短篇集『ナイン・ストーリーズ』の扉に引用されているのは、禅の公案「隻手音声」。白隠慧鶴が創作したもので、『無門関』第一則の「狗子仏性」よりも疑団が起りやすいと、晩年は好んで用いられていたそうです。

/三郎左

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