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『天使の蝶』 – 日めくり文庫本【7月】

【7月31日】

 床には、汚れたぼろ布や紙くず、骨、ペン、果物の皮などが一面に散らばり、赤褐色の大きな染みが数か所にある。アメリカ人は、それをカミソリで慎重にこそげ落とし、粉をガラスの試験管に集め取った。片隅には、なにかは特定できない、白や灰色の乾いた物質が小山のように積みあげられていた。アンモニアと腐った卵の臭いを放ち、ウジが涌いている。「支配者(ヘレンフォルク)め!」と、ロシア人が蔑むように言い放った——彼らのあいだでは、ドイツ語が話されていたのだ——。アメリカ人は、その物体についてもサンプルを採取した。
 イギリス人は、一本の骨をひろいあげると窓辺に寄り、矯(ため)めつ眇(すが)めつ眺めた。「なんの動物の骨だね?」とフランス人が尋ねると、「わからん」とイギリス人が応じた。「こんな骨は見たこともない。先史時代の鳥類のようだ。それにしても、こんな突起があるものといったら……。まあ、綿密に分析する必要があるだろう」そういう彼の声には、嫌悪感と憎悪、それに好奇心がないまぜになっていた。
 四人は骨をひとつ残らず拾いあつめ、ジープへと運んだ。ジープのまわりには、野次馬がちょっとした人だかりを作っている。一人の少年などは車内に入りこみ、座席の下になにか落ちていないか漁っていた。四人の軍人が戻ってきたのを見ると、みんなが急いで離れたが、三人だけは動じずに、その場にとどまった。年老いた男が二人と、若い娘が一人。軍人たちは彼らを尋問したが、なにも知らないようだった。レープ教授? 会ったこともありません。シュペングラー夫人? 一階に住んでいた? 空爆で死にましたよ。
 軍人たちはジープに乗り込み、エンジンをかけた。ところが、いったん背を向けて立ち去りかけていた若い娘が、戻ってきてせがんだ。「煙草あります?」煙草ならばあった。娘は語りだした。「レープ教授が飼っていたケダモノをみんなが殺したとき、あたしもその場にいました」そこで彼らは娘をジープに乗せ、連合軍の司令部へ連れていった。
「ということは、あの話は真実だったのか?」とフランス人。
「どうやらそうらしい」イギリス人が応えた。
「鑑識はさぞ苦労するだろうな」骨の入った袋の感触を手のひらで確かめながら、フランス人が言った。「まあ、苦労は俺たちもおなじことだがね。これから報告書をまとめなければならん。どうにも逃げられん。ひどい任務だよ!」

「天使の蝶」より

——プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』(光文社古典新訳文庫,2008年)87 – 89ページ


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