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『楽園への道』 – 日めくり文庫本【6月】

【6月7日】

 彼は多くの夢を抱いてやってきた。パペエテの熱い空気を吸い込むと、真っ青な空から降り注ぐ強烈な光に目がくらくらした。どこへ行っても突然に目の前に現れて、街の埃っぽい小路を香りでいっぱいにしている果樹——オレンジ、レモン、りんご、椰子、マンゴー、生茂るグアバ、栄養のあるパンの木——の爆発しているかのような自然が、自分の周囲を取り囲んでいるのを感じると、しばらく忘れていた仕事をはじめたいという思いがこみ上げてきた。だがすぐには取りかかることができなかった。というのも、あれほど憧れていた土地で、彼は幸先のよいスタートをきれなかったからだ。到着して数日後、フランス領ポリネシアの首都でマオリ族最後の王、ポマレ五世の壮大に葬儀が行われたので、ポールは鉛筆とスケッチブックを手に葬列を追いかけ、クロッキーとデッサンを描きまくった。その数日後、彼は自分も死んでしまうのではないかと思った。というのも、一八九一年八月初旬、やっとパペエテの熱い空気と染みいるような香りに慣れてきたその頃、ひどい喀血と心悸亢進の発作に襲われ、彼の胸はふいごのように膨らんだり萎んだりした後で、呼吸困難に陥ったのだ。面倒見のよいジェノは、海に注ぐ川の近くにあるその川の名を冠したヴァイアミ病院に彼を運んでくれた。病院は広大な敷地に建っていて、病棟と病棟の間の庭には、マンゴーやパンの木があって、天辺あたりで鳥が群がり囀っている大王椰子が聳えたっていた。医師たちは、心臓の衰弱を阻止するためにジギタリスを主成分とする薬を処方し、足の炎症止めに芥子軟膏を塗り、胸には吸い玉をあてた。また医師たちは、この発作は数か月前パリで診断された、人前では口にするのが憚れる病気の新たな症候だと認めた。ヴァイアミ病院を委ねられいるサン=ジョゼフ・ド・クリュニー会の修道女たちは半ば冗談、半ば真面目に、彼が下品な船員言葉を使うことや(「シスター、俺はかなりの間それを職業としていたのですよ」)、病人のくせにのべつパイプをふかしていること、コーヒーにブランデーを垂らしてくれと横柄な態度で要求することなどを非難していた。

「2 死霊が娘を見ている——マタイエア、一八九二年四月」より

——マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』(河出文庫,2017年)26 – 27ページ


19世紀フランスで女性解放運動と労働組合活動の連帯を求めた社会改革運動家フローラ・トリスタンとその孫ポール・ゴーギャンの物語が交錯する本作を書いたマリオ・バルガス=リョサ、この3人はペルー南部のアレキパという街でつながっているのだとか。
近郊で採れる白い火山岩で建てられた街並みは「白い町 La Ciudad Blanca」と呼ばれているそうです。

/三郎左

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