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『虚栄の市』 – 日めくり文庫本【7月】

【7月18日】

 ものを深く考えてみるのがお好きのお客さまならば、斯様(かよう)な見世物の真っ直中を歩いていましても、己れ自身の気分か他人(ひと)さまのものかはともかくも、そんなはしゃいだ気分に負けてしまうこともなかろうと存じます。そのような心根の方であるならば、諧謔味(かいぎゃくみ)に富んだ場面やら、人の心の優しさを垣間見せる場面やらで、ときにはほろりとさせられたり、ときには嬉しい気持にさせられたりするかもしれません。たとえば可愛いチビさんが、生姜入りクッキーを売る屋台をじっと見つめていましたり、とっても綺麗な娘さんが、お土産に何を買ってあげようかと恋人から甘い言葉をかけられて、顔を真っ赤にしているところなどに、ちょくちょく出会ったりもいたしますから。かと思えば可哀相に、親父のとんぼ返りの芸で、やっと糊口を凌いでいる正直者の道化師一家の者たちが、幌馬車の陰に身を寄せ合って、髄入り骨を齧(かじ)っているのが遠くに見えたりいたします。ともあれ「市」全体の印象は、楽しいものであるよりは、どうしても、悲しいものになってしまいます。ですから、皆さまがお宅にお戻りになったならば、書物に向かうにせよ仕事に取り掛かるにせよ、これまでにも増してしみじみと、ものの哀れを身に沁みて感じることであろうかと、密かに愚考いたす次第です。
 もうこれ以上『虚栄の市』のお話に教訓めいたことを付け加える気はございません。しかし、お客さまの中には、この「市」にはけしからぬ話が多すぎて、身内の者にも召使にも近づかせぬようにするのが無難だろう、と思し召す向きもあろうかと存じます。それはそれで、ごもっともなお考えではありましょう。とはいえ、お客さまの中には、そんなふうにお考えにならずに、ひとつここは固いことは言わないで、ゆったりかまえて見物してやろうじゃない、いや、少し斜にかまえて楽しんでやろうじゃないか、とお思いの向きもあろうかと存じます。そんなお方には、ちょっとお時間を割いていただき、掛小屋に足を踏み入れて、このお芝居を御覧になるのも一興でございましょう。場面はとりどり取り揃えてありまして、恐ろしい喧嘩もあれば馬の優雅な脚さばきもあり、やんごとなき方々の日々の暮らしぶりから、ごく月並みな連中の立ち居振舞い、涙もろいお客さま用の情緒纏綿(てんめん)の濡れ場から、軽いお笑いに至るまで、実に盛りだくさん用意してございます。そんな場面には書割を添え、作者自ら蝋燭を用意いたしまして、お客さまに見やすいようにと明るく照らす所存でございます。

「幕前の口上」より

——サッカリー『虚栄の市』(岩波文庫,2003年)10 – 12ページ


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