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『天皇の世紀』 – 日めくり文庫本【10月】

【10月7日】

 西郷吉之助が勝安房守を初めて訪問した時に、勝は幕府の役人を存分にきびしく批判した後に、強力な藩の大名に参加を求めて「明賢諸国四、五名の会」に依る衆議を採り国論を決すべきだと説いて、素直な談話に西郷を仰天するほど驚かしめた。西郷はこれを「共和政治」という呼び方をして大久保一蔵に知らせてやった。付添っていた坂本竜馬が勝の平素の議論を聞いていない筈がない。雄藩連合の発想の芽は、ここにも潜んでいた。また竜馬が海軍塾の資金を借りに越前へ赴いた時に横井小楠にも接触する機会を得た。小楠の考え方は、諸藩の力を総合して、対外問題を解決させようとするもので、勝と共通した発想であった。小楠は、江戸の大久保忠寛が紹介状を持たせて「大道解すべき人」として推薦して来た竜馬に対し、国内で藩に分裂して争っている時期ではないことを時局を批評して説いた。両人ともかなり打ちとけて意見を交換した。
 福井の由利公正(当時三岡八郎)の明治になってから後の談話に、その片影が窺われる節がある。
「小楠の邸宅は私の家と足羽川を隔ててむかい合っていた。ある日親戚の招宴でおそく帰ったところ、夜半に大声で戸をたたく者がある。出て見ると小楠が坂本と一緒に小舟に棹さしてきた。そこで三人が炉をかかえて飲みはじめたが、坂本が愉快きわまって『君がため 捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行末』という歌をうたったが、その声調がすごぶる妙であった。」
 文久三年五月のことらしく、横井小楠は既に五十五歳の老年、竜馬は二十九歳の壮年だが、お互いに若者同士のような酒の飲み方をして相共に興じ入った。
 竜馬は、この越前福井で会った時に小楠から聞いた議論を忘れていなかったろう。そして今日、幕府が長州再征の暴挙を起こそうとしている時、薩摩と徴収とは相変らず犬猿の仲なのである。これは島津久光が江戸に赴いた時に、それまで在府中だった毛利敬親が、急に会わぬように中山道に出て帰国したことから始り、長州勢が禁門に攻め込んだ時に、薩摩藩が守護職の会津藩に協力して寄せ手を潰走かいそうせしめた恨みが拭い去り難く長州人に残っていた。長州では諸隊の壮士等が、薩摩の奴が馬関に来たら、ここを三途の川と思わねばならぬと放言し、また誤認からだが薩摩の藩船を陸上から砲撃して破損せしめた事件もあった。品川弥二郎の如きは、「薩賊会奸」と下駄に書いて平素常に踏みつけて歩いたほど、憎しみを持って薩摩に対している。攘夷戦争のさきがけとなった長州人が、夷人とは仲善くしても薩摩の奴は堪忍せぬと公言したというのである。
 三十一歳になった坂本竜馬は、鹿児島に渡る船で凪風に顔を吹かれながら、この世に生を受けた自分がなすべき大きな仕事が遂に見つかったと思い、血の湧く思いでいた筈である。日本を改革し、新しい国——漠然と夢想する近代国家とする為には、薩長二雄藩を連合させて、古い権威として壁のように立塞がっている幕府を崩壊させることであった。この大望を思い当たった時、彼自身白い大きな海鳥となって、波濤の上の空に翔けのぼるように感じたことだろう。自らを燃焼して焔とする情熱であった。

「客の座 二」より

——大佛次郎『天皇の世紀(7)』(文春文庫,2010年)30 – 32ページ


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