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『ガリマールの家 ─ある物語風のクロニクル』 – 日めくり文庫本【5月】

【5月31日】

 さて、ガストン・ガリマールは、自分で書いたものとしても、証言としても、以上のものだけしか残さなかったように思われていた。生前に、自分のことは何も語らず、回想録も書かず、ノートもとらせず、人に送った書簡の発表も許さなかった(盟友フォルグあてのものだけをすこし許可したことはあるが)。人には会わず、人まえに姿をあらわすこともなかった。それにあの高齢である。みんなあきらめてしまっていた、というよりもむしろ、まったく置きわすれられた形だった。
 ところが、今年一月五日の週刊誌《レクスプレス》は、生きていることさえ気づかれなかった大先輩への追悼特集をおこない、絶対に自己を語らなかったこの人から死の三年まえにひそかに録音されたもの、——マドレーヌ・シャプサルとの『対談』の一部を公表した。これは同誌が劈頭に掲げているように、まさに「一大スクープ」Une grande exclusivité である。
 電話をきらい、タイプライターをきらい、人ごみをきらい、およそ「文明」と彼が名づけているものをきらっていた彼も、ふとしたはずみに自分からマドレーヌ女史のわなに陥って、彼女のおみやげの魔法のボンボンをながめながら、テープレコーダーのほうは見て見ぬふりをした。そしてとうとう一年間、二週間に一度、一回にすこしずつ、自分のこと、職業のこと、彼が親しかった大作家たちのこと、若いときの思出を語りつづけたのであった。マドレーヌ・シャプサルはガストン・ガリマール以上に謙遜な人に出会ったことはなかった、とつけくわえている。もちろん彼の生前に公表することはゆるされなかったのである。
 このような歴史的な記録となるべき対談に際して、人が真先に彼から聞き出したいと思うのは、誰のことであろうか?
 マルセル・プルーストのことなのである。
 これは質問者が「何よりもまずあなたはマルセル・プルーストの出版者でした。あなたの[#「あなたの」に傍点]プルーストのことを話してください」と切りだしているほどである。

——井上究一郎『ガリマールの家 ─ある物語風のクロニクル』(ちくま文庫,1975年)32 – 33ページ


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