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『日本語は天才である』 – 日めくり文庫本【3月】

【3月2日】

以下全部、根室方言

 こっから方言のことしゃべるけど、いまさっきの「威露破(いろは)がるた」のことで先に言っとっか。おれらの子供の頃みんな露助って言ってたもな。けどさ、べつに軽蔑してたんでない。だいち、露助って見たことなかったもな。船が「ロスケにダホされた」って話は耳でしょっちゅう聞いてたけど、露助と拿捕が漢字で書けるようになったのは高校入ってからだべさ。
 高校んとき東京の大学行くべと思ってよ、そんで早稲田大学に入った。そんとき確かに知ってた日本語ば第一章の23、24ページに並べてみたさ。あいてくさい、あずましい、あったら、あめる……。以下全部、北海道方言だ。根室方言だ。
 あいてくさいって、なんか意味わかんないかい。相手臭いって書けばわかりやすいべかね。要するに、相手にすんの馬鹿臭いのさ。あいてくさいの「あ」は強く言うんだ。あったらっていうのは、なになにがあったらでなくて、軽蔑してあんなの意味だ。このあったらのあもあいてくさいのあと同じで、強く言う。
 とにかく23ページで言ったように日本語も英語もなんも知らなくて英文科に入ったさ。したらそのうち歯ごたえのあるでっかい作家がいるって知った。それがジェイムズ・ジョイスさ。
 初めはジョイスにだら、はばけた。南部せんべ食うのとわけ違う。したって、なんもわかんないべさ。なんもだ。ガスん中やばちいやちけっぱって歩くみたいなもんだ。はっちゃきよ、まあゆるくないゆるくない。そんでもそのうちおれの英語だって、おんこの苗にたとえれば、少しはおがるべさ。ちょびっとずつちょびっとずつだけど齧れるようになった。たとえて言ってみれば、ジョイスんとこのいさばやさあんこに入って語用聞きから始めたさ。そんで十年、二十年たつうちに、ジョイスば翻訳すっかって気になって『フィネガンズ・ウェイク』やったんだ。
 ま、それまでだいぶいろんな翻訳やったっけ全部『フィネガンズ・ウェイク』翻訳のための練習みたいなもんだ。練習たってこったら小説なんて思ったら、なんぼぜんこないったってやんねえさ。うまいこといい作品にばっかし恵まれて、だからいい翻訳するべって思うから本気よな。もちろん今から見たら下手くそださ。んだけどへらからいごしょいもば読書に食わせたつもりない、べつにいいふりこく気ないけどよ。ちゃんこ間違いもうんとたるし、118ページで敬語をあっぺこっぺに使った役人みたいなしくじりもしたけど、しゃあないっしょ、ごめんな。

「第六章 あずましい根室の私」より

——柳瀬尚紀『日本語は天才である』(新潮文庫,2009年)158 – 159ページ


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