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『サロメ』 – 日めくり文庫本【8月】

【8月21日】

第一の兵士  とてもかなはぬことでございます、王女さま。
サロメ   (水槽に近づき、中を覗く)なんて暗いのだらう、底のほうは! さぞ君の悪いことだらう、こんなに暗い坑(あな)のなかにゐるなんて! まるでお墓みたい……(兵士たちに)きこえないのか? あの男をこゝへつれておいで。あたしは逢つてみたい。
第二の兵士  お願ひでございます、王女さま、その御命令だけはお許しくださいまうやう。
サロメ   あたしを待たせようといふのだね。
第一の兵士  王女さま、おためとあらば命は惜しみませぬが、その御命令だけはお肯(うべな)ひできませぬ……いづれにせよ、私どもにそのお言ひつけは、御無理にございます。
サロメ   (若きシリア人を見て)あゝ!
エロディアスの侍童  おゝ! 何が起こるといふのか? きつとなにか禍が起らうとしてゐるのだ。
サロメ   (若きシリア人に近づき)お前なら、きつとしておいくれだろうね、ナラボス? お前なら、きつとしておくれだろうね? あたしはいつだつてお前に優しくしてあげたもの。さうだらう、お前ならきつとしておくれだらうね? 一目でいゝ、あたしは会つてみたい、あの不思議な預言者に。みんなあの男の話ばかりしてゐる。あたしは何度も耳にしてゐるだよ、王さままであの男の話をするのを。どうやら、あの男を恐れておいでらしい、王さまは。〔さうとも、たしかに恐れておいでなのだよ〕……お前もさうなのかい、ナラボス、お前までも、あの男を恐れてゐるのかい?
若きシリア人  私は恐れませぬ、王女さま。私は誰も恐れませぬ。でも、王さまがこの蓋を開けることをかたく禁じておいでなのでございます。
サロメ   お前なら、きつとしておくれだらうよ、ナラボス、さうしたら明日、神像売りの群る城門の下を吊台に乗つて通るとき、お前の上に小さな花を投げてあげるよ、小さな緑の花を。
若きシリア人  王女さま、私には出来ませぬ、とても出来ませぬ。
サロメ   (微笑しながら)お前なら、きつとしておくだらうよ、ナラボス。それがお前にはよくわかつてゐるはず、お前ならきつとしておくれだらうよ。さうしたら明日、神像買ひの群る橋の上の吊台に乗つて通るとき、きつとお前のほうを見てあげるよ、モスリンのヴェイルの奥から、お前を見てあげるのだよ、ナラボス、笑つてあげるかもしれない、たぶん。あたしをごらん、ナラボス。ごらん、あたしを。あゝ! お前にはよくわかつてゐるはず、お前はあたしの願ひをかなへてくれるつもりなのだよ。お前にはよくわかつてゐるのはないかい?……あたしには、それがよくわかつてゐるのだよ。
若きシリア人  (第三の兵士に合図して)預言者を引き出せ……王女サロメさまがお会ひになりたいと言はれる。
エロディアスの侍童  おゝ! なんて不思議な月だろう! どう見ても、死んだ女の手としか思へぬ、その手が経帷子(きやうかたびら)をまさぐり、身にまとはうとしてゐるかのやうに。
若きシリア人  まつたく不思議だな。どう見ても、琥珀の眼をした小さな王女としか思へぬ。モリスンの雲越しに、小さな王女のやうにほゝゑんでゐる。

——ワイルド『サロメ』(岩波文庫,2000年改版)26 – 28ページ

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出典:Victoria and Albert Museum - J'ai baisé ta bouche Iokanaan より


オーブリー・ビアズリーの挿絵も印象的な本作ですが、1893年に初めて出版されたフラン語版には挿絵はありません。それを読んだビアズリーが、"J'ai baisé ta bouche Iokanaan" と題された上のペン画を「ステュディオ」誌の四月号に発表すると、翌年に出版された英訳版から彼の挿絵が採用されることになります。
オスカー・ワイルドは当初、挑発的なボーズやあからさまに性的で暴力的なイメージの彼のイラストだと、自分の作品の方がこのイラストを描写する役割になってしまうのではと懸念していたそうです。

/三郎左

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