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『中井正一評論集』 – 日めくり文庫本【2月】

【2月14日】

 日本人は、これをどう取り扱っているだろう。茶室の柱など、重さをささえているとか、空を貫くという考えかたをつとめて避けて、軽く、きわめて軽く、この空間に浮いているようなこころもちを現わしているようである。しかしその軽さは、きわめて、緊張したものなのである。前にも、後にも、動かしようもない、そのほかにはありえようもない、宇宙間の秩序の中に、その処を、しっかりと把握しようとしているようなこころもちなのである。
 日本語の、芸術家のよく用いるあの「間(ま)」は、「間あい」「間があう」「間がぬける」「間にはまる」「間がのびる、ちぢむ。」というあの間は、時間にも用い、空間にも使うのであるが、これなどは、まったく日本的なものなので、英語に訳しにくい言葉である。テンポでもなく、スペースでもない。
 お能で、あの太鼓がポーンと切り込むが、あれなどは、それまでの一切の時間を、切って捨てたような感じのものであって、決して、オーケストラのリズムのように、次から次に続くものの、その一つをうっているような太鼓ではない。前にも、後にもない、鋼鉄のようにしまりきった時間を、ポーンと、凝集しきった形できめつけるような太鼓なのである。頭の中のものを裂かれるような快さである。モヤモヤした何ものもが、脱落しきった感じなのである。
 これが、日本の「間」という日本の芸術の時間なのである。時間が、糸のように連続して流れていると思っていたのに、むしろ、切断されてしまって、ほんとうの自分が流れ動き、新しいものになっているのを感ずるのである。
 前の時間が、そのまま流れているのは、滞っているのである。切って捨てて脱落して新しく生まれるからこそ生きているのである。
 「間」というのは、この生きていることを確かめる時間の区切り、切断、響きなのである。
 すべての音楽、舞、演劇、美術のすべてに、この緊まった、軽い「間」なるものが、あるわけである。そして、この「間」がわかるのは、ただ、訓練だけであると、東洋の芸術、および日本の芸術は教えているのである。

「美学入門」第1部 ——美学とは——
 4 生きていることと芸術

——中井正一『中井正一評論集』(岩波文庫,1995年)263 – 264ページ


「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり」と詠われますが、実際の祇樹給孤独園精舎には鐘はなかったそうです。
日本人は、時を告げる鐘の音が鳴っている「間」にこそ、「生きていることを確かめる時間の区切り、切断、響き」を感じていたのでしょう。

/三郎左

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