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『悪魔の涎・追い求める男』 – 日めくり文庫本【8月】

【8月26日】

 ここまで書いて、近くにビールを飲みに行く。その間にぼくのタイプライター(ぼくはタイプライターを使っている)がひとりでに書き続けてくれたら、完全なものができ上がるだろう。文字通り完全なものが。というのも、語り手というのがじつは丸い穴、つまりコンタックス1・1・2という、種類は違うがやはり一台の機械なのだ。カメラに関してなら、ぼくやきみや、彼女——ブロンドの女——や雲よりもタイプライターのほうがよく知っているにちがいない。ただ、ぼくが部屋を出て行けば、このレミントンはテーブルの上で石のように動かなくなることは言うまでもない(もともと動くしか能のないものが止まっていると、いっそう静止して見えるものだ)。ばかばかしい話だが、ともかく自分で書くより仕方がない。いずれ誰かが話すことになるのなら、ぼくたちの一人が書けばいい。いっそのこと、あまり深入りせずに、死んでいればよかった。今、ぼくに見えているのは雲だけだ。ものを考えたり、何かを書いたり(そこを今、灰色の縁どりをした別の雲が通りすぎて行く)、あるいは思い出にひたっている時も、たえずあの事が気にかかっている。ぼくは死んだ人間だ(だが、こうして生きている。人を惑わそうと思って言っているのではない。そのことはいずれ分かってもらえるだろう。とにかく話さなければならないので、最初からはじめることにしよう。何かを話すにはこれが一番いい方法だ)。
 それにしても、どうしてぼくが語らなくてはならないのだろう。いや、自問してはいけない。なぜ自分はこんなことをしているのか、どうして夕食の招待を受けたりしたのだろうか、などとやりはじめたらおしまいだ(今、鳩が一羽飛んで行く、僕には雀のように見える)。人から面白い話を聞かされると、とたんに胃のあたりがむず痒くなり、隣のオフィスへ行ってそれ吐き出さないことにはおさまらない。なぜそうなるのか考えても仕方がない。とにかく人に話せば、あのむず痒い感じがおさまり、安心して仕事に戻っていけるのだ。ぼくの知る限り、誰もこの点について説明していない。それなら、いっそのこと話してしまえばいい。息をしたり、靴をはくのと同じで、なにも恥ずかしがることはない。靴の中にクモがいるとか、息をするとガラスにひびの入ったような感じがするというように変わったことがあれば、誰かに話すことだ。オフィスの同僚で医者に。先生、息をするとですね……。つねに話すこと、そうして胃のあたりのむず痒さを取り除いてやればいいのだ。

「悪魔の涎」より

——『コルタサル 短篇集 悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫,1992年)57 – 58ページ


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