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『無常』 – 日めくり文庫本【2月】

【2月13日】

 道元は右の如く答えながら、さらに一歩をすすめて、「生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし」と言っている。生死即涅槃というありきたりの言葉の意味を、ここであらためて注意して見る必要がある。
 既に別のところで、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」という、われわれ日本人には古来から耳なれた無常偈について書いた。ここでは、生滅が滅し已(おわ)ったところが寂滅、涅槃とされている。そして「滅已」は時間の終局、生滅の経過の果(はて)と、通常では考えられ、それはまた生の果、死と観念されている。従って「無常」はたとえば「露の命」というように、また「無常たちまちいたる」「無常迅速」というように、直ちに生命の終局、死と観念されている。そして死のさきに、寂滅涅槃境があると思われている。浄土、彼岸、極楽もそういう聯想で語られている。ところで「生死即涅槃」は、そういう通常の観念の否定である。無常の生死のさきに常住の涅槃があるのではない。無常が涅槃、生死が寂滅だというのである。無常変転の時間は一定の到達点、目的地へ向かって直線的、連続的に進んでいるのではない。つねに生じつねに滅するという生滅無常が時間の裸形である。時間は本来無目的、非連続である。刹那生滅、刹那生起、いわば無意味なことの無限の反覆が時間というもののあらわな姿といってよい。目的へ向って進んでいるのではないという点からいえば、虚無、死、寂静へ向って進んでいるのではないということになる。返って、時間は、念々が虚無につながっている。無始無終の非連続の谷間には、虚無の底なき深淵がのぞいている。反覆の間は虚無である。そして、これこそまさにニヒリズムといってよい。時間は虚無を根底とする無意味なことの、果てしないくりかえしである。人生も諸行も神羅万象も、この時間においてあるよりほかにないのだから、結局は虚無、無意味である。無常はかくして虚無、無意味をあらわに示しているということになる。無常は、詠嘆の感情、情緒などとは全く無縁な冷厳な事実、現実である。

「無常の形而上学 ——道元——」より

——唐木順三『無常』(ちくま学術文庫,1998年)262 – 263ページ


ループ量子重力理論の提唱者の一人であるカルロ・ロヴェッリによると、「時間は存在しない」。
過去から現在、そして未来へと不可逆的に流れる「時間」がこの世界に内在しているのではなく、私たちがそれを「時間」感覚として生み出しているだけなのだそうです。

/三郎左

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