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寄り添うことと社会学

「社会学者って人でなしだよね」

これは、私が自分の持つ問いを研究に起こしていく上で社会学的な文脈を選んだときに大学の教授の一人から言われた言葉です。

その教授曰く、「社会学者は社会に起きている現象を外から客観的に見て分析していく。人の動きや困りごとを面白がりながら外から眺めるなんて人でなしみたいじゃない」と。
もちろん、私が学部生の頃の話ですから私がその教授の言いたいことを十全に理解出来てない可能性は大いにあると思います。ただ、その時の私はひどく切なくなったのを覚えています。

それから時は流れて先日、社会学者の大澤真幸さんが書かれた『社会学史』(講談社現代新書、2019年)のゲオルグ・ジンメルの項目を読んでいたときに似たような文章に出会いました。その文章の中では社会学者の奥井智之さんの『社会学の歴史』(東京大学出版会、2010年)における例えを引き合いに出して以下のように書いています。

”ほんとうに社会学者が、天使のように必然的に傍観者でしかないのあらば、それは、寂しいことで、この知の存在価値にも疑問が生ずるのではないですか。”(p.253)
※奥井は著書の中でヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』に出てくる天使(あたりにたくさん存在している。人間には見えず、人間のやっていることや心の中を観察し記録に残している)に社会学者を例えている。

「いや、本当にそれ!」

口に出している自分がいました。完全に天使(事象に介入せず影響を与えない)でいないとその事象を正確に描けたとは言えないが、そんな立場に居ながら人間を愛し、よくなるように動く一人の人間であることは難しい。ここで介入したいと思いながらも介入が出来ず、自身にできるのは正確に記述することだけなのである。しかも、その記述した知見は十全に社会に還元できているとは言いづらい。

そのことに関して大澤は、以下のようにも言っています。

”ー社会学という知にとっての究極の課題は、目一杯天使でありつつ、完全に人間であることはいかにして可能か、にあるのだ、と。”(p.254)

「本当にそれ!(2回目

事象を正確に記述しつつ、且つ人間としてその事象に関わっていくことは大変困難です。近年では、プラグマティックな研究やエンパワメントまでの流れを含んだ研究が増えてきましたが、未だにそういった部分での社会学者の立ち位置や科学としての立ち位置はせめぎ合っていることが多いように感じます。

私の関わるコミュニティの分野においては、ケアや教育といった様々な分野との親和性があり、実践を伴った研究プロジェクトが多くあります。そんな中で自分の研究のあり方についても考えていけたらと思う今日この頃です。

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