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時代を超える調理器具、おひつの話


おひつを買った。
 
わたしは昭和38年生まれなのでおひつごはんを食べていそうだが、よく考えるとおひつのごはんを食べるのは初めてだ。わたしの家にはおひつはなかったし、祖母の家にも子守をしてもらっていたおばちゃんの家にもなかった。
 
昭和40年代、ちょうど電子ジャー炊飯器という、炊飯器と保温器が合体したすんばらしい家電製品がデビューし、実家も祖母の家もすぐに導入した。ごはんの保存は炊飯器に入れたままでOKになったから、おひつは必要なかったのだろうと思ったが、実はそうではないようだ。
 
ダイニングキッチンが一般的な現代では、食卓は炊飯器のすぐそばにある。実家も祖母の家もそうだった。しかし昔、台所は食卓と離れたところにあった。炊いたごはんをなにかに移し、食卓に持っていく必要があったのだ。おひつはそのために使う移動容器だった。
 
さらに炊飯器が普及する以前は、食卓のある居間から遠く離れた台所のかまどで、ごはんを炊いていた。炊飯器具はバカでかい羽釜や鍋だ。一日に何度もごはんを炊くことはまずなく、一度炊いたごはんを一日保存できる容器が必要だった。軽くて使いやすい木製のおひつは、移動&抗菌作用のある保存容器として使われていた。

そう考えると、炊飯器でごはんを炊けばそのまま保温できる現代の生活に、おひつの居場所はなさそうだ。しかし、おひつはそもそもの役割や意味を超えて、ごはんをおいしくする調理器具として現代の生活にちゃんと居場所を見つけている。
 
わたしの家のおひつは、炊飯器の前にちんまりと陣取っている。炊飯器で炊けたごはんはざっくり混ぜて蒸気を飛ばしておひつに移す。おひつに移すときにも盛大に蒸気が上がり、ここでよぶんな水分が飛ぶ。移し終わって数分経つと蒸気が落ち着くので、おもむろに蓋を閉める。
 
説明書に「おひつは調理器具です」と書いてあったが、確かに炊きたてのごはんをさらにおいしくする調理器具だと思う。朝7時に炊いたごはんを夜7時に食べてもおいしい。冷たくなってはいるけど、むしろ冷やごはんがおいしいのでレンジを使わなくなった。というか、冷やごはんを楽しみに仕事から帰るようになった。
 
ごはんの湿度を一定に保つおひつは自動でごはんの水分調整をしてくれる。杉や椹の抗菌作用はごはんの保存時間を長くし、木の香りをごはんに与えることもする。大変だと思っていた手入れも、食べ終わったらすぐにお湯で洗い、清潔なふきんで水分を拭き取り乾かすだけだ。洗剤は不可なので使うことはない。というか、昔の台所用具(洗うのも拭くのもふきん)で手入れをすればいいだけなのだった。なんというシンプルさ。
 
余ったごはんを冷蔵庫・冷凍庫で保存し、食べる前に電子レンジでチンする、という習慣がなくなり、おひつに保存されている冷やごはんをよそって食べることがあたりまえになった。なんというシンプルさ。電気を使わずにいられるとは。
 
こういうの、たぶん40代や50代では日々気忙しくてできなかった気がするから、やっぱ60歳になったからかしら、とか自らの年齢と心の余裕を祝いでみたりする。生活から不必要なものを削ぎ落としていくのは快適なことだから。

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