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「葬儀必要なし・散骨希望」と言われた娘的に考えたこと


娘のころから死んでも墓には入りたくないと思っていた。暗い地下の穴蔵のようなところに入れられたら閉所恐怖症のパニック発作が起きそうだからだ。かりに骨であっても、だ。

漠然と、散骨がいいなと考えていた。法的に縛りがあったと記憶していたが、調べてみたら粉状になっていれば散骨OKらしい。最近は業者も増え、墓に入らない・入りたくない人々が多いということだろう。両親も数十年前は墓がどうとかこうとか言っていたが、最近散骨してほしいと言い始めた。おっ! いいですね! 娘的には諸手を挙げて賛成である。

なぜなら、結婚記念日も人の誕生日も覚えられないわたしには、死後3年めとかで行う3回忌とか7年目に7回忌とか10回とか、絶対に覚えられない。きっと命日も覚えられない。薄情なのではなく、単に記念日を覚えるのが苦手なのだ。したがって、海は広いな大きいなどこに行っても海は繋がっているから、折々に海に向かって手を合わせればいい散骨はとてもありがたい。

のだが。

漠然とした「散骨希望しまーす」に、実際のところどんな手続きが必要なのか、そもそもお亡くなりになったあとどういう手続で火葬場に行って戻ってくるんだとか、うっすらと知ってはいるが全然知らない事柄について調べておかなくてはならないと考えた。

両親ともにそういうことは一足飛びに通り越し「葬式いらない」「戒名いらない」「墓には入らない」「散骨してほしい」と骨になったあとのことしか言わないのだった。大事なのはそこじゃなくてもっと手前なのよね。

例えば病院で亡くなった場合、事前に契約している葬儀社がなければ順番で葬儀社が決まったり(祖父の時がそう)するが、その葬儀社が散骨対応可能かとか、自宅で亡くなった場合は警察に遺体が引き取られ検死後に帰ってくるんだが、その遺体をドライアイスなしにどうしたらいいのかとか、ドライアイスはどこで買うんだとか、死亡後はこういう事象が待ったなしで遺族に襲いかかる。準備しないと途方にくれてしまうだろう。備えあれば憂いなしだ。

ということで調べているうち、なぜか自分が体験したお葬式について思いを馳せていた。祖父の葬儀時に母と叔母、祖母が香典返しについて激しく議論を戦わせていたこと、大好きだった農家のお葬式で、骨になって祭壇に祀られたその人の遺影を見て「死んじゃったんだ(涙)」と実感が湧いたことなど思い出し、葬儀及びそれにともなう事務的な手続きにちゃんと意味があるのだなと気づく。

身近な人が亡くなると、その日から通夜・葬儀の手続き、香典返しなど遺族には金銭がかかわる現実味あふれる事務作業が待っている。お通夜から火葬場に行って骨になって祭壇に祀られるその過程もめちゃくちゃ忙しい。次々にタスクをこなしているうち、故人と自分との間に薄い布のような隔たりのようなものが一枚ずつ重ねられ、もうこの人はいないんだという気持ちが現実のものになっていく。

果たして、葬儀なしでもこういう実感が湧くんだろうか。最も身近な親の死後、自分はどんなふうに思うのだろう。葬儀をしなくても、相続手続きとか火葬とかNHKや水道局に連絡とかしているうちに「いなくなった」感が現実になる気もするし、まあいいか。

ちょっとだけ心配なのが「生前お世話になったよね」という人たちに「お線香をあげたいけどどこに行けば良いんですか?」と聞かれたときだ。戒名いらない=位牌がない=仏壇もない・墓もないので「海に向かって手を合わせてください」でいいんだろうか。

今後の懸案事項=両親の友人対策。

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