霧の中で
総合病院、会計待ちのベンチに座る。
人が多くて少し離れた場所になった。
遠くのモニターを眺めて、自分の番号がまだ随分先だとわかるとすぐスマホに目を落とす。
「すみません。」
しばらくして、声をかけられた。自分だと気づくまでに少し時間がかかってしまった。相手は車椅子のおじいさんで、顔をあげると目線は自分とほぼ変わらない。
「え。あ、すみません。」
自分で答えながら(何に対して「すみません」なんだろう)と思ってしまった。気づかなくて?驚いてしまって?うわ、なんか面倒かも、と直感的に考えたこと?
「これを、買いたいんですが。」
おじいさんは続けた。座っていたベンチのすぐ側には紙パックの自動販売機があった。その場で、どれかの商品を指さしている。
(あぁ、押したいボタンが届かないのかも)
と察した。
「あ、ボタン、押しましょうか。どれですか?」
「………。」
「これですか?……こっち?」
会話を続けてみたが、おじいさんはうつむいてしまった。沈黙が続く。うつむいた先の手元に、何か握っているのが分かる。とても可愛らしい、チャックにくまのキーホルダーがついた、ポーチのようなもの。
「すみません、これで、買ってもらえませんか。」
開いたチャックの中には、小銭がいくつか入っていた。(そっか、お金いれなきゃ。)と思い直す。でも、勝手に取るのもなんだか悪い。
「えっと…。お金、とって、入れても、いいですか?」
耳が遠いのかもしれないと思って、ベンチに腰掛けたままさっきより声を大きくして聞いた。少しジェスチャーも入れてみた。
「すみません、すみません。」
と返された。やっぱり声が聞こえてないのかも…と悩んでいると、
「すみません、どうやって買ったらいいか、分からなくて。すみません、すみません。」
(「どうやって買ったらいいか分からなくて」?)一瞬、自分の中にも「?」がいっぱい出てきた。でも、あ、そうか。お年寄りなら自販機が分からない可能性もある。…のか。
そう思い直して、もう一度向き直った。
「あの、これ、お金、とりますね?」
少し、いや普通に緊張している。開かれたチャックの中から100円玉を2枚取り出した。反応をみると会釈をされた。とりあえず嫌がることはしていない、と思う。
「じゃあ、これ、入れますよ?」
2枚の100円玉を入れると、全部の紙パックジュースボタンにランプが付いた。
「どれ、買いましょうか。」
まだ緊張している。それに気づかせないくらい、今度は早く返答がきた。
「そこの、いちごのやつを…。」
指先にある「いちごのやつ」は「いちごオレ」だけだった。はやる気持ちを抑えて、もう一度聞く。
「あの、いちごのジュース、押してもいいですか?」
「お願いします、お願いします」
コミュニケーションが取れた気がして、確信を持って押した。ゴロン、といちごオレが落ちてきて、ジャラン、とお釣りが出た。
そのとき、「お父さん!!!」と声がする。やってきたのは、中年の女性だった。
「あそこで待っててって言ったのに。」
とても心配していた、そんな声色だった。開いたままの財布に、領収書や処方箋の書類の束を抱えたままで、精算を終えてすぐ探してたんだと思った。
「すみません、すみません。」
先ほどまでと同じように何回も謝るおじいさんを見て、なんだか申し訳ない気持ちが芽生えた。
「あ!あの、すみません…。」
女性に声をかけると、すぐにこちらに気がついた。上手く経緯を説明できる気がしなくて、とりあえず思いつくまま矢継ぎ早に話しかける。
「ジュースを買いたいと声をかけられたので…、すみません、勝手に。ポーチからお金をとって、今お釣りと、コレを……。」
お釣りといちごオレを手に、女性に向かって差し出す。なんだかすごく、自分が怪しい気がして、忘れかけてた緊張が蘇ってきた。
あらまぁ…と小さな声がして、改めて女性の顔色を伺った。特に怒ってはなさそうで、安堵する。女性はこちらに向かって言った。
「ごめんなさいね、ありがとうございます。何か、ご迷惑をおかけしませんでした?」
なんとなく、色々と察してくれたようだった。まずはお釣りを渡しながら、答える。
「いえ、全然大丈夫です。こちらこそすみません、これ、買ってしまったんですけど…よかったですか…ね。」
いちごオレの行き場がなくなってしまったように感じた。もしかしたら余計なことをしたかもしれない。
「あぁ、大丈夫ですよ!ありがとうございます。」
女性はそう言って、いちごオレを受け取ってくれた。それを、しっかり屈んでおじいさんに渡した。
「お父さん、こんなの飲むんだねー。」
ゆっくりと、そう話しかけた。やっぱり、耳も遠かったのかな、と思う。おじいさんは笑って、女性にこう返した。
「ちがう。これはね、娘のなの。娘が好きだから、ウチに持って帰るの。」
あぁ、そうだったんだ。と自分が思うのと同時に、「そうなのねー。」と女性は返した。
「色々とごめんなさい、ありがとうございました。」
立ち上がった女性から改めて声をかけられて、ホッとする。
「いやいや、私は何も。すみません。」
今度のすみません、は特に意味がなかった。この一連のやりとりをどう結べばいいのか分からなくて、とっさに出た言葉だ。
会釈をして、一通りの荷物を鞄にまとめると、女性は車椅子を押して遠ざかっていった。
先ほどのやりとりを思い返す。
「ちがう。これはね、娘のなの。娘が好きだから、ウチに持って帰るの。」
おじいさんの言葉に、「そうなのねー。」と返した女性は、立ち上がった瞬間、こう呟いたのだ。
「いつの話をしてるんだか。」
でもその顔が、とても優しかったことを、私は知っている。いちごオレを受け取ったおじいさんと、同じ顔をしていたことを。
「これを、買いたいんですが。」
「そこの、いちごのやつを…。」
「お願いします、お願いします。」
おじいさんとのやりとり一つ一つを、本当はあの女性に伝えたかった。「すみません、すみません。」と私にも何度も謝ったこと、謝らなくてもよかったのに、と、伝えられたらよかった。
だけど、叶わない。
それをするには、あまりにも短い時間で、
あまりにも薄い関係だったからだ。
モニターを見上げると、自分の受付番号が迫っているのに気がついた。自動販売機の前から離れてみると、さっきまでの出来事が嘘のように感じた。たくさんの行き交う人影の一部に、自分が溶け込んでいくような感覚。
手渡したいちごオレの冷たさだけが、確かにまだ手の中にあった。
(2,621字)
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