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We are here. We are queer. Get used to it.

クィア・スタディーズ97‘の冒頭文が最高で何度も読み返した。「ゲイのことはゲイにしかわからない」「レズビアンのことはレズビアンにしかわからない」クィアと一括りにしてもそれぞれの問題は異なるが、直面する問題が異なれば共有するものが何もないわけでもない。寧ろクィアという共通の土俵を持つことで表に初めて出る問題もある。これがクィアの本質だし、キーワードである「連帯」を蔑ろにできない。

最近、メディアで「クィア」という言葉が無責任にも使われるようになったけど、「LGBTQ」「セクマイ」じゃダメなの?なぜ「クィア」という言葉を使ってるの?と疑問に思うこともある。19世紀末の英語圏でクィアという言葉が蔑称として使われた背景があり、先人たちが「We are here. We are queer. Get used to it.」と身を削りながら叫びまくって、クィアという言葉が変容すると共にクィアの存在も知られるようになって.......と同時に、それでも今もなお昔と変わらず、クィアの人権が保障されない現状があるのは呆気ない。

そんな現実もなかったかのように、クィアという言葉がファッション的に消費されてく現代で、自分をクィアだと自称するのはそういう意味では恥ずかしいし、レズビアンと言った方がしっくりくるけど、やっぱりクィア当事者とクィアという共通の土俵を共有している瞬間は色んな感情が込み上げる。6月になるとレインボーカラーの靴下やレインボーカラーのパッケージで包まれたチキンを売るような表面上の“クール”なことをしても、それはクィアという共通の土壌を共有していることにはならない。本質的な意味でクィアって何?を知って行動することこそがクールなのかなと。


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