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詩人リルケの都会観

都会を毛嫌いするのにその一部に紛れ込むーー。人混みの中にいる自分を少し遠くから見ると、大量生産された人間の一人であることに気づく。さらに上から覗くと、人間に差はない。

なるべく自己という「内」に向き合おうと思っても、いつの間にか「外」に向かってしまう。事物の真偽は、「自然」とそれに相反する「都会」なのだ。

だが、不思議なことに人間は矛盾した生き物であり、都会に嫌悪感を抱くものでさえも、孤独を恐れる。結局は都会の奴隷となり、内に向かう暇なく外の事物を求めてしまう。

混沌とした世の中で孤独と奮闘する若者や孤独死に見舞われる老人、そんな社会に生きる現代人の心を見据えたかのように、「時祷詩集」(Das Stunden-Buch)を残した。その中の「貧困と死」は、まさにリスケの核となる都会への批判、孤独を愛することといった主張が表れている。

都会はしかし自分のことしか考えない、[1]
そして一切を自己の流れの中に引きずり込む。[2]
うつろな朽木を倒すように動物たちを打ち砕き[3]
多くの民衆を劫火の中に消尽してしまう。[4]

そして都会の人間は文化の奴隷と化し、[5]
平衡と均斉を失って深い谷間へ転落し、[6]
蝸牛の這った跡にも似たものを進歩と称し、[7]
以前ゆるやかに走っていたところを目まぐるしく駆け、[8]
娼婦のような感じで、きらびやかに飾り立て、[9]
金属やガラスをやたらとがちゃつかせる。[10]

毎日何かしら詐りに愚弄されているようで、[11]
彼らはもう彼ら自身であることができない。[12]
貨幣は増大する一方で、ほしいままな暴威をふるい、[13]
東風のように強大だが、それに引きかえ[14]
彼らは小さく、吹き上げられて今にも叩きつけられそう。[15]
酒や、また動物と人間との体液のあらゆる毒素が[16]
はかない仕事への刺戟を与えてくれるのを待ち受けている。[17]

比喩的表現が入り組みながらも、まっすぐ伝わるような技法を使っていることが特徴。「都会はしかし自分のことしか考えない」と1行目から都会を批判していることは、リルケ自身の考えが強く現れている。

多くの民衆を劫火の中に消尽してしまう。[4]

特に4行目の「多くの民衆を劫火の中に消尽してしまう」は都会の恐ろしさを突きつけられる。ただ火の中に放り込まれるだけではなく、さらに希望のない現実を突きつける。

「劫火」とは、仏教用語であり「四劫」の一つである「壊劫」に当てはまる。ここで「四劫」について触れておくと以下のとおりだ。

  • 成劫:世界が成立する

  • 住劫:世界が持続する

  • 壊劫:世界が破壊する

つまり、3の「壊劫」に消尽するということは、次の4「空劫」に進む希望さえもない。この大災害を鎮火させることはできない、さらには新しい地でやり直すことでさえ許されないほどの、都会の有毒性に触れている。

そして都会の人間は文化の奴隷と化し、[5]

次の行では[4]の「劫火の中に消尽してしまった」都会、つまり「死」を迎えた人間と解釈し、それらの人々は既に劫火の一部である「奴隷」と化す。もっと簡単に言うと、その環境にしかいない人々は二度と戻れないのだ。次の行[6]でも「深い谷へ転落」と表現している。

蝸牛の這った跡にも似たものを進歩と称し、[7]
以前ゆるやかに走っていたところを目まぐるしく駆け、[8]
娼婦のような感じで、きらびやかに飾り立て、[9]
金属やガラスをやたらとがちゃつかせる。[1o]

ゆったりと時間が流れていた日々のことでさえ忘れてしまう。そんな目まぐるしい毎日に身を寄せ、今あることが当たり前かのように都会に溶け込む。「娼婦」と比喩で表しているのは、本質を忘れてしまった人たちのことである。キラキラとした金属のアクセサリーを身につけていても、その物自体に価値がないように安っぽく見えてしまうのだ。個人的な偏見で言葉を選ばずに言うと「歌舞伎町女子」のような、ブランド物をちらつかせた女子に似るものがあるのかと感じた。

3パラグラフ目では、そんな偽りに纏う人々は、自分自身のことを忘れてしまい、戻ることはできないといい、既に諦めているかのような絶望を謳う。

東風のように強大だが、それに引きかえ[14]
彼らは小さく、吹き上げられて今にも叩きつけられそう。 [15]

キラキラとしたアクセサリーを身に纏った娼婦(=都会に染まった人々)を「強いようで弱い」と述べている。さらに「今にも叩きつけられそう」と続く。確かに、本質を忘れて流行だけを追いかける人、忙しさに慣れてしまった人、お金が全てだと思っている人など、すぐに本質からは遠い部分に侵食されてしまう。また次の違う「何か」が訪れると、尻尾を振ってついて行ってしまう。彼らはその「何か」を刺激と称し、詩は酒に飲まれる無惨な姿で終わる。

この作品が説得力を持つのは、リルケ自身が経験しているからこそに他ならない。いくつもの作品で、彼は都会パリでの生活に馴染めず、幾度も田舎へ移住していることを示している(『マルテの手記』)。

さらに『若き詩人への手紙』では、「自然から目をそらし、都会にまぎれ込み、諸物に迷い込んで、自然から生存の間隙へと転落し、睡眠や覚醒の習慣においても、すべて自然を否定し自然にそむくーー」と述べており、ここでも虚構の「都会」が「自然」と相反することを表現しているのだ。リルケの都会を批判する姿勢は一貫して、何度も形を変えて詩に現れている。

SNSが発達した現代では、都会は物質的な側面だけでなく、目に見えない側面で身近に侵されているかもしれない。高額なものを身につけているのは本当にそれが好きだからか、周りの評価ばかりを気にして行動していないか。さまざまな誘惑が存在する中で、いかにして自己と向き合うか。自己と向き合うことの方が難しいかもしれないが、その行為そのものに意味があるのだ。


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