見出し画像

いのちのかぎり 〜生まれたら、いつか必ず死ぬということ〜 2

末期癌で、出来る治療がなくなった母は、8月から在宅療養、緩和ケアをしています。


母との最後の時間になるかも知れない。
悔いのないように過ごしたい。
やれる事は出来るだけやってあげたい。
そんな今の状況を記録出来たらと思い、書き始めました。

が、思ったほど書く時間が取れなかったり、気持ちや身体がしんど過ぎて、書き進められなかったり。
そうしているうちに、どんどん時間だけ過ぎていっています。
少しずつ書き足しているうちに、1ヶ月以上過ぎてしまいました。


何とも慌ただしい毎日の中で、事細かに記録していくことは難しいと感じています。

大切な人が病気で苦しんでいる姿を見るというのは、本当に辛く苦しいものです。
もちろん、本人が一番辛く苦しいのは間違いないのですが、見守る家族も、平常心ではいられないのです。

7月中旬から1ヶ月ほど、母が腸閉塞で苦しんでいた時にネットで色々な方のブログを読ませてもらい、食事のことなどを参考にさせてもらいました。けれど、思うように知りたい情報が上がってこなくて、途方に暮れたりもしました。

ネットの中の、どこかの誰かの経験談に救われたり、励まされたりするのは、私一人ではないでしょう。
母の事をここに書く事で、誰か一人でも、気持ちの整理が出来たり、心の準備をすることで、大切な人との時間をもっと大切にできるといいな(多少の参考になれば)と思っていましたが、とてもそんなたいそうな事は出来そうにないと気付きました。

だけと、せめて、同じ気持ちで過ごしている人がここにもいるよ、と知って欲しいです。


目の前の母が末期癌で苦しんでいて、あとわずかでお別れしなければならないのだという事実を
突きつけられ、心細く寂しいです。
本人の前で泣いたり、辛い辛いとは言いたくないので、一人になると涙が溢れて来ます。

今はまだ父は元気で、家事を全てこなしながら、少しだけ仕事もしています。でも、それなりに高齢で、ちょっとした仕草や後ろ姿を見た時など、いつまで元気で過ごせるだろうかと思い、これまた泣きそうになってしまいます。
そんなこんなで、いつも目一杯、私の心が張り裂けそうで、今、正直とてもしんどいです。

私の経験が、どこかの誰かの、ほんの少しの支えになることができたらいいな、なんて考えながらも、実際は目の前の事にオロオロして、細々とした"ちょっとしたこと"に追われて過ごしているのが現状です。


母は16年前に乳がんで左胸切除の手術をし、抗がん剤や飲み薬などで治療をしていました。再発もなく10年を超えて、仕事も、旅行も、孫たちとの時間も、アクティブに楽しんでいました。

(それ以前にも、それ以降にも、頚椎や、腰椎、盲腸、静脈瘤(ずいぶん昔のことで、手術時に大変な思いをしていました)、肩の関節の手術など、いくつかしていますが、なんとかかんとか元気になってくれていました。)

約四年前、お腹に異変を感じた母は、病院で検査を繰り返していました。

その頃、母にどういう状況なのか尋ねると、
「オシッコをすると痛いの」
と言っていました。

我慢強い母は、弱音を吐くこともなく、病院を信じて、治ると信じて、対処してもらえるのを待ちました。

あれよあれよと腹水が溜まり、お腹が妊婦さんのように膨れ、息も苦しく、相当しんどい時間を過ごしていました。
手術は出来ない、と一度は告げられたものの、やはり手術をしましょう、となり、最初に異変を感じてから4ヶ月後くらい(本人が我慢強く、言わないため、本当はもっと前だったのかも)たって、お腹の中の癌をある程度取り除いてもらいました。開けてみないと確定出来ない、と言われていた病名は、卵巣がんでした。

卵巣がんは、見つかった時には手遅れ、ということが多いそうで、5年生存率も絶望的な数字でした。5年後には、もう母は生きていないのかも知れないのかと、私は毎日布団の中で泣きました。


母は、お腹の中に癌が散らばっているから、全部は取りきれない、できる限り取り除いた、という状況で退院してきました。

その後は、抗がん剤治療をしながら、副作用で体調を崩したり、髪の毛が抜けたりしながらも、

「寝てるともっとしんどい気がするの」

と、仕事して、旅行へ行って、ずっと動き続けていたように思います。
もっとだらだらしてもいいんじゃない?と声をかけても、そんな性分じゃないから!動かないともっと辛くなる気がする!と言って、決して応じませんでした。

術後も3年くらいは目一杯、働いて、遊んで、治療にもまめに通っていました。
でも、時々お腹の激痛で動けなくなる事がでてきて、何となく落ち着いて、というのを繰り返していました。

お腹が痛くなった時も、いつも抗がん剤をしている大きな病院に行っていました。病院に行っても担当医が居ない曜日だから、と、昼間、我慢に我慢を重ねてどうにもならなくなって、結局夜、目の悪い父の運転で病院へ行き、結局担当医が居ないからよく分からない、また来て、というのが定番のようになっていました。(これも私にとって大きな不安とストレスになっていました)

そうしているうちに、だんだん仕事中にも体調を崩す日が増えてきて、今年7月中旬、ついに腸閉塞で入院となりました。
総合病院の婦人科で卵巣がんの治療をしていましたが、腸閉塞は消化器内科です。
あまり連携が取れていないのか、腸閉塞がたいして良くなってないうちに退院となり、そのまま食べられず、飲めず、動けない状況にまでなっているのに、次の抗がん剤の計画を立てにくるように言われていました。

さすがに母も、このままではどうにもならないと感じたようで、在宅緩和ケアの個人病院へ行ってみる、と自分から切り出してきました。
私の方でも、これはマズイと思う状況だったので、同じタイミングで相談予約をしたところでした。翌日、朝1番に、連れて行きました。

抗がん剤をやめたら、もう生きられないと思って、ひたすらに頑張ってやってきた母ですが、その抗がん剤で、身体が弱った部分もあると思います。
後になって、あの時こうしていればと思うことも山ほどありますが、その時、その時で、自分の信じる道を進むしかなかったです。
もしかしたら母は、もっと早くに亡くなっていたかも知れないところを、母の選んできた道のおかげで、生きながらえてくれたのかもしれません。

母の卵巣がんが分かってからは、母と過ごす時間、何をするにも、これが最後になるかも知れない、と思って過ごしてきました。
悔いがないと言えば嘘になるけれど、やれる事を、私の精一杯でやってきたとは思います。


腸閉塞の入院後、みるみる体調が悪化し、慌ただしく始まった、母の在宅療養。

2週間くらいの間は
毎日看護師さんが来てくださりひどく具合が悪い時には先生も来てくださいました。

点滴をしたり、注射をしたり辛い症状を緩和する薬を出してもらったり。

この頃は、痛みでのたうち回っていた母が穏やかな笑顔で過ごせる時間が増えていました。

全部スッキリとはいかず痛い時も、嘔気嘔吐がひどい時も、怠くてしんどい時もあったけれど、薬を調整してもらいながら、一時期のどうにもならない痛みからは脱していました。


このまままた元気になってまた前の母のように元気にあちこち飛び回る日が来るのでは…

と思える日もあったし、そう思いたかったです。

けれど実際はだんだん弱っていたのです。

初めの頃、母本人は恐らく非常にしんどいのだろうけれど、よほどしんどい時以外は

大丈夫、大丈夫!生きてる証拠

と、決して弱音を吐きませんでした。



また元気になって

仕事に戻ったり

旅行に行ったりしたいな


先のことは分からないから

体調が回復するかもしれないし!

と言いました。

そうなってくれたらどんなにいいだろう。

1秒でも早く母の痛みや苦しみを取ってあげたい一心で緩和ケアに移ってもらったし、今の身体の状態では抗がん剤にはとても耐えられないから、どちらにしてもがんに対抗する形での治療は進められないのだけれど、これで良かったのか、と、自分を責めてしまう気持ちに、何度もなりました。


母はモルヒネなどの医療用麻薬を使いながら、騙し騙しここまで3ヶ月ちょっと、すごしてきました。

七月中頃の腸閉塞の激痛から、嘔気嘔吐、倦怠感、脚の酷い浮腫み、浮腫からの浸出液などを経て、今はもう、食べることが出来なくなりました。

ここ数日全く食べられず、飲み物もごくわずか、癌の症状と、全く食べていない栄養失調のような症状とで、しんどくて起き上がることも難しく、喋るのもやっとの状況です。

少し前には、医師からは一年、半年というのは難しいけれど、まだ数週間というほどでもない、というような説明を受けました。

今回、全く食べられなくなって、一気に体調が悪化しているため、残りの時間が少なくなってきました、と言われました。

なかなか決断出来なかったモルヒネの持続皮下注射を、母が納得して、開始しました。
その影響で体のしんどさが多少マシになるかも知れない、そこでどれくらい頑張れるかは、誰にも分からない、とのこと。月単位ではないように感じる、もしかしたらあと1〜2週間かも知れない、と。


弱音を吐かなかった母から、この頃はポツリポツリと弱気な言葉が出てきています。

癌は辛いなぁ。じんわりじんわり。

死ぬのを待っているみたいで。

何にもやる事がない。

腰が痛いなぁ。寝てばかりだから。



この1ヶ月ほどは、浮腫んで重くなった脚を、頑張ってマッサージしたりストレッチしたりして、眠くなるのが嫌だからと頑張って起き上がって座ってあるようでした。痛みやしんどさ、倦怠感などの時に飲めるモルヒネ水(医療用麻薬のシロップ剤で、1時間に一回飲んで良い)も、副作用で眠気が出るのが嫌だからと、あまり飲もうとしませんでした。

だんだんと、身の置き所がない、と言い始めました。例えると、眠くてたまらないのに、無理やり起こされ続けているような感覚だそうです。
ベッドの端に座って、頭を杖にもたれさせ、体を左右に揺すって、しんどさを紛らわせていることが増えました。

食べ物をじわじわと受け付けなくなってきて、4日ほど前に、たった一口、飲み込むことも辛くなってからは、何も口にしたくない、と言って、それきり食べていません。
小さな氷を少しだけ舐めて、口の渇きを多少癒やしていますが、脱水状態から回復できるわけでもなく、気休めでしかありません。

これまでたくさん助けてきてもらって、いっぱいお世話になったのに、私の出来ることといったら、ほんの僅かな身の回りのことだけ。
母の苦しみを少しでも楽にしてあげることは出来たのだろうかと悶々とします。

そんなこと思わなくていいのかも知れないけれど、母が何も食べられないのに、私は美味しい物を食べているという事が、罪悪感となって襲ってきます。
ただ歩いたり、綺麗な空を見たり、庭に咲いた花を見つけた時も。
いつも母が話し相手で、1番の親友で、自分の一部みたいに感じていたのだと、ここにきて初めて気付きました。
全部聞いてもらっていたなぁ。なんでもないことを、うんうん、って聞いてもらっていたんだなぁ。嬉しいことも、モヤモヤしたことも。
気楽にLINEで送ったり、顔を見て話したり。
子どもたちの何気ないエピソードに、一緒に笑ってくれていたんだなぁ。


もう、それが出来ない。

今は、ものすごい喪失感に、打ちのめされています。

徒歩で60歩ほどの距離に住んでいて、お互いに、毎日のように行き来していたので、まだ、ひょっこりのぞきにきてくれるんじゃないかと思えてきます。
でも、母はこの60歩すら歩けなくなって、ベッドで横になっていてもしんどくて、目を開けることも出来ない時も出てきました。


日常生活で、泣いてばかりいられないし、辛すぎて、重すぎて、友達に話せない。

だから、せめて、ここまで読んで下さった方、どうか聞いてください。


もうすぐお母さんが死んでしまうの
寂しいよ

自分の一部が欠けてしまうように感じるの

これからどうやって生きていったらいいんだろうって、不安で仕方ない

私、立ち直れるのかな

お母さんは、今日、頑張りなさいよって言ってくれたけど、私は、大丈夫、って答えたけど

大丈夫じゃないよ
本当は辛いよ

寂しいよ
お別れしたくない

もっと一緒に色んなことしたかった
子どもたちの成長、見守ってほしかった
寂しい
寂しい

残されたお父さんも、この先大丈夫なんだろうか

弟も…

私たち、お母さん無しで

どうしたらいいのか分からない 

明るく生きて行けないんじゃないかな

こんな私の姿見たら、お母さん悲しむよね
泣いてばかりいて


夢か現実か、分からない気持ちになる
夢だったらいいのに

お母さん、寂しいよ




読んでくださった方、
とんでもなくとっ散らかった心の中に、お付き合いくださって、ありがとうございました。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?