見出し画像

ビンサントの歴史

みなさんいつもありがとうございます
わたくしが運営するサイト
podere tinaiaのサイトより文献をお引越しさせることにしました
当農園の商品の特徴や歴史などをイタリアの文献を参考にしつつご紹介できたらと思いますのでどうぞよろしくお願い致します。

まず第一弾
ビンサントの歴史。

1439年のフィレンツェ公会議において、ヴィン・プレット (Vin Pretto、純粋なるワインの意) と呼ばれる地元フィレンツェのワインが供された。このワインを飲んでみて、ベッサリオンはトラキアの有名なストローワインのことを言いたかった、クサントス (Xanthos) のようだと述べたといわれている(彼はワインが「黄色い」 (Xhantho, ギリシア語: ξανθό) と評したのだとする説もある) 。地元フィレンツェの人びとは、彼がそのワインを「聖なる」 (Santo) と評しているのだと思い、それに倣ってこのワインを「聖なるワイン」と称し売り出し始めたという。時代はおりしもフィレンツェ黄金時代のルネサンス期である。薬文化で栄えたメディチ家にならって、薬として飲ませた(この時代はとくに妊婦に 聖なる子を産ませるようと飲ませた)という伝説もある。
私たちがお届けするのはヴィン・サント・デル・キャンティ DOC (Vin Santo del Chianti DOC)というもので 国よりキャンティ地区として指定されたコッリ・フィオレンティー二(フィレンツェキャンティ地区)にて生産している。
ブドウの割合と比率はトレッビアーノ・トスカーノとマルヴァジーア・ビアンカ・ルンガを単体もしくは混醸で70%以上使用。残りの最大30%分には、サンジョベーゼを使用している。栗の木樽で約3年以上熟成してある。こちらの栗の木は夫の祖父の代から使われているものである。(所説あるが戦争で焼けたものもあるので親族からいただいたものもある)
実はビンサントは家族の長い長い歴史の一つでもある。
私の夫の曽祖父は1920年代よりこの地に移り住み、この地を収める領主とその家来たちに仕えながらずっと小作農として営んできた。
農家というのは日本の昔のシステムと同じように自分たちの土地でとれた作物は決められた量だけ領主に納めなければならない。それを土地代代わりにし、余った作物でなんとか生活をなりたたせる。ブドウもまたしかりで、Borri家には領主の作物を集めさせる中心として、この土地にこの領主が治めるすべての土地の作物をここに集めさせた。大量の収穫されたブドウが秋以降ここにどんどん運ばれてくる。
であるからして、昔話によくある狡い家来や、悪賢い他方の農家など、ありとあらゆるタイプの農作物にたずさわる人々がこの地に出入りしてたことになる。
そんな人々の目をかいくぐって自分たちの分、量を確保できるには並々ならぬ知恵を目とコミュニケーション能力が必要になる。
そこから編み出されたのがビンサントである。ビンサントというのはルネサンス期よりフィレンツェに浸透してからはトスカーナのどこの農家でも重要な収入源として作られてきた。
レシピは家の数ほどあり、このブドウの配合量や度数というのは1997年にキャンティで定められたもので、(一律にするため)実は以前は定かではない。とはいえその味はワインがなしで生活はできない地元の人に長く愛されてもらうためお墨つきなわけである。
ビンサントは昔からその作り方が秘伝であることと手間がかかるので当時にしては高値だった。しかも贈答品として必ず使われていたので収入源は高い。夫の親族によるとその収入に頼って学校に通った、とまで言い、それはおおげさではなくて一理あると思う。それほど当時の農家には収入面でひっ迫した家庭もあった。
トスカーナではブドウは特にたくさん作られ、その種類も量も多かった。そして不作の年になれば試行錯誤で作られたビンサントを売れば不作の分の収入は得られるということである。
ここにはきっと領主から、ぶどうの取れ高を目隠しする農家の駆け引きがあって、それは(ずる)賢いトスカーナの農家らしいとしかいいようがない。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?