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質問箱コラム #5:肯定と共感の、その先へ。

☆このコラムは、質問いただいた方への手紙のような形で執筆していきます。匿名という特性上、質問者さんの状況や心の状態を、私なりに想像しながら書かせていただくことになります。

お互い顔も名前も知らない身です。書いてあることは真正面から受け止めず、そういう見方もあるかもね、くらいで流してもらえると良いかなと思います。

質問ありがとうございます。ニュータイプの質問です。新世代です。冷静に見えるかもですが、どう答えようかとアタフタしながら書いています。

考え方ってどの考えのことを言ってるんでしょうか。あ、怒ってる訳ではないですよ。純粋な疑問です。どれか特定のnoteを読んでそう感じたのか、私のnote全般の言葉選びみたいなものからそう感じてくださったのか。どちらですかね。

とりあえず、後者として考えてみようと思います。note全体を通して私の考え方や言葉選びが素敵だと思ってくださったという前提で、こちら回答していきますね。


まず、感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございます。誰かから好きだと言われたり、憧れのような気持ちを持ってもらえることは、とても嬉しいです。人から尊敬されるために文章を書いているわけでは全くないのですが、自分が書きたいことを素直に表現した結果、それを好きだと言ってもらえることはとても嬉しいです。

私ね、上手と言われるより好きだと言われる方が嬉しいんです。昔からそうでした。絵とかピアノとか文章とか。書くのが上手いね、表現が上手と言われるよりも「私はあなたの作品が好き」と言われる方が、ああ、作ってよかったなあと思う気持ちが強くなる気がします。上手というのは何か基準があって、それを超えている、みたいな意味合いを感じるのですが、好きというのは人間の素直な感情じゃないですか。とくに数字的な基準があるわけではなくて、理由は上手く言語化できないけどなんか好き!みたいな。だからこそ嬉しさが増すのだと思います。



さてさて、質問の回答に入りますね。

まず、どうしたら私のようになれるか、という問いについてですが、正直わかりません。分からないし、なろうとしなくて全然大丈夫だと思います。

誰しも、憧れの人っていると思うんですね。私もこんなふうになれたらな。かっこいいなって、尊敬の念が強い人。もちろん私にもいます。でも、その人になりたいとは思わないんです。なりたい、というかなれないなあ、の方が近いですね。その人の素敵なところを形作っているのは、その人の経験だからです。経験によって学び、学びが血肉となり、その人自身の心や身体を作っています。それをそっくりそのまま体験することはできないのですね。

だから、その人のようになろうとはせず、その人の素敵な部分をどうやったら自分のレシピに取り入れられるだろう、と考えるようにしています。ほんとに、料理みたいな感じです。おふくろの味って、なかなか再現できないじゃないですか。調味料を同じ配分で入れているはずなのに、なんかお母さんの味じゃない。そういうのって、あると思うんです。


質問をくださったあなたを形作っているのは、あなたが今までの人生で得てきた経験や、知恵や、出会いです。それをまずは大切に。その上で、これからお伝えする私なりの価値観や考えのコツみたいなものは、隠し味程度に思って、受け取ってもらえたらと思います。


まず、前提としてお伝えしたいのは、私は自分の考えをナマモノの状態でnoteに垂れ流しているわけではありません。ナマモノに感じるような工夫は色々しているんですが、多少加工して文章に起こしています。

なぜかというと、自分の考えを不必要に押しつけたくないからです。これは本当に不思議なのですが、伝えようという気持ちが強いほど、なぜか伝わらないんですね。読んでいる人にはどう見えるだろう。どんな印象を持つだろう。読者のことを考えながら、自分の気持ちを言葉にするようにしています。

だからたまにやっちゃったな、てこともあります。普段友人や家族に話す時の言葉だったり、ニュアンスをそのままnoteに書いてしまうことがあるからです。次の日になって気づきます。あ、これはちょっと言葉間違ったなってなります。周りからの反応もいつもと違うのですぐ分かります。

ちょっと攻めた内容を書いたな、と感じた時はその日に投稿せず、次の日もう一度内容を見直してから投稿するようにしています。それくらい、noteで使う言葉には気をつけるようにしています。これらの前提の上で、ここからの回答を読んでいただけると嬉しいです。


私の考え方について、やや深めにお話します。考え方とはつまり価値観です。価値観の根っこには、正義があると私は思っています。正義という根からどんどん枝が分かれて、その先にあるのが価値観という葉なのだと思うんですね。

自分の正義が脅かされると、人は強い怒りを感じます。絶対に譲れない部分だからです。そこを誰かからつつかれると許せないのですね。私が大事にしていることは、ここにあるのだと思います。自分にとっての正義は決してブレないように。でも価値観は変わるもの。人によっても、時間によっても変わるもの。自分の芯の強さと柔らかさをしっかり自覚して、その上で言葉を紡いでいくことを、意識しています。


私の正義とは、自分が思っている以上に自分は何も知らないという認識を持つことです。簡潔にまとめると無知の知です。ソクラテスさんのお言葉です。

昔から、偏見や知ったかぶりが好きではなかったのです。人の見た目を馬鹿にしたり、なんの理由もなく攻撃する人を見ると、強い怒りを感じていました。その人のことを誰よりも知っているようなふりをして、無責任に強い言葉を放つ人がどうしても許せなかったのですね。

攻撃以外もそうです。憶測や噂も好きではありません。事実かどうか分からないこと、当事者にしか分かりえない気持ち。そういう曖昧なものに対して、興味を示す気持ちは分かります。知りたいからですよね。知的好奇心です。でもね、その人にしか分からない気持ちは、そのままその人のものにしておいていいと私は思っているんです。自分は、自分が思っている以上に何も知らない。知らなくていいこともある。これは、今も昔も変わらない私にとっての正義です。


無知の知が根っこにあるので、人に対しての執着が薄いというのも、私の価値観としてあると思います。人と自分の程よい距離感ですね。これは、昔からそうだったわけではありません。大人になってから、できるようになったことです。

幼少期は他人に対して、怒りをまっすぐにぶつけるような子どもでした。周りが自分の思い通りに動いてくれないとすごく嫌な気持ちになっていたのです。「もっと私の気持ち考えてよ」という怒りが何よりも先に湧いてくる感情でした。

そしてもうひとつ。他人のへの共感性が強いという特徴も抱えていました。今ではHSPと呼ばれていますね。すっかりお馴染みの言葉になっているかと思います。自分が怒られているわけではないのに涙が出たり、怒っている人がいると動悸が激しくなったり。意識せずとも人の感情に共鳴してしまうので、自分の感情と人の感情の境目がわからなくなっていました。「あなたは本当はどう思っているの?」と聞かれると全然答えられないんです。人の気持ちを軸に考えたり動いたりするのが当たり前だったので、自分のことになると分からないことだらけでした。

これらの特徴・思考の癖は、大人になって完全に消えたというわけではありません。消したいと思っていた時期もありました。すごく生きづらかったからです。でも、頑張って、もがいて、共感性の高さを消そうとしても、生きづらさから抜け出すことはできなかったのです。

HSPやアンガーマネジメントの本を何冊も読みました。自分と同じくHSPに悩む人たちとも繋がりました。でも、モヤは晴れませんでした。改善しよう、向き合おうとするほど、状況は悪い方向に進んでいる気さえしました。具合が悪い日が増えていきます。部屋は荒れ、ごはんもろくに食べられない日が続きました。大学の授業を何度もサボりました。

そして、そのうち気づいたのです。私は、自分の繊細さを誰かに共感して欲しいわけではない。 理性的な解決策が欲しいわけでもない。肯定と共感の先に行きたい。ただ、自分が納得できる自分でありたい。その上で、他者と繋がれる存在になりたい。

高校・大学と歳を重ねる中で地道に体得してきたのは、自分をど真ん中に据えるという感覚です。自己中心的でもなく、自己犠牲的でもない。自分が自分としてどっしりと立ちながらも、周りと共存していく。共に在ることができる。この絶妙なバランス感を意識的に鍛えるようになってから、人への執着や嫉妬はほとんどなくなりました。自分の共感性の高さに悩むこともなくなりました。

短所を長所に変えられたというわけではありません。繊細さを消したわけでもありません。ただ、自分であり続けるコツを身につけたのです。細くて今にも折れそうだった木の幹が、どっしりと太い大木に成長するイメージです。


吉本ばななさんの著書、キッチンのあとがきに、私がとても大切にしている言葉があります。

感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある。それでも生きてさえいれば人生はよどみなくすすんでいき、きっとそれはさほど悪いことではないに違いない。もしも感じやすくても、それをうまく生かしておもしろおかしく生きていくのは不可能ではない。そのためには甘えをなくし、傲慢さを自覚して、冷静さを身につけた方がいい。多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いない

共感性が高いとはいえ、人の気持ちがすべて分かるわけではありません。むしろ、分からないことの方が多い。だから、自分の感受性に決して甘えない。感受性は心のアンテナ。アンテナを張りながらも外からの信号に支配されず、ただ、”自分”であり続けること。太い木であり続けること。他者を知ろうとすること。理解できなくても、耳を傾け続けること。吉本ばななさんがくれた、強くて優しい説教を、私はとても大切にしています。


もう終盤なので、これまでお話してきたことを少しまとめてみますね。

私の根っこには、無知の知という正義があります。どんな強風が吹こうとも決して揺るがない根です。そして、自分であり続けるという意志が枝葉にあります。自己中心的でもなく自己犠牲的でもない。ただ自分でありながらも、外の世界に心を拓き続ける姿勢です。

すごく、難しいのです。この姿勢を維持するのはむずかしい。だからたくさん間違えます。人の相談に乗っていて、自己中心的になってしまったと後悔することも何度もあります。自分の心を犠牲にするあまり、他者の感情に飲まれそうになる時もあります。

だから今も絶賛修行中なのです。しなやかで、したたかな人間であり続けるために、日々修行をしています。noteも修行のひとつです。




最後に、これは完全にオマケなのですが、私がnoteを書く上で大切にしている3つのことをお話しておわりにしたいと思います。この3つは、またどこか別のnoteで深くお話できたら嬉しいです。

・言いたいことはオブラートに包まず、ユーモラスで包んであげる。

・痛いところを突くのを恐れない。でも、怒りをそのまま文章にしない。

・言葉選びはイメージの近さにこだわる。でも、言葉自体に執着しない。

こいつ守れてないなと思ったら、その時は、あなたがこっそり教えてくださいね。noteのコメントだとみんなに見えちゃって、公開処刑のように感じて心がポッキリ折れそうなので、質問箱のDMだとうれしいです。


よろしくお願いします。


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