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あなたは確かに、ここにいる。

エアコンいらずの朝晩。

網戸を介して部屋に入ってくる秋めいた風に思わず、「待ってました」なんて呟きたくなるもので。うっかり言葉にすると、スッ…と空気に溶けていく。

もちろん、返答はない。

ただ、なぜだろう。当たり前のこの現象でさえも、この季節を象徴しているかのように思える。

***

とても個人的な話、週はじめの月曜日という日に夏休み休暇をとっているので、うだうだこんな深夜26時まで起きていてしまった。

たまの夜ふかしは、悪くない時もある。
ということで、夜の暗闇に紛れてよもやま話をしよう。

***

「 所詮、自分はひとりぼっち。 」

いつからかすっかり消えてなくなったが、
思春期真っ只中だった学生時代に、
心の片隅に置かれていた言葉。

誰もいない空間で、ただただ夜が深まっていく時間にひとり、勉強机に向かう中でふと、そんなことを思っていた。

いや、これはただ悲劇のヒロインぶってるだけのか?

別に死ぬほど何か病んでいるわけでもないのに、そんなことを思う自分っておかしいのか?わからない。ただ、漠然とそんな気持ちに駆られていた。

物理的に一人ぼっちなわけでもない。
学校に行けば友達がいるし、家に帰れば家族がいる。

「学校お疲れ!今日こんなことあってさー。まじアホすぎで笑えるわ」
なんて、中身のないどうでも良い話をLINEできる相手もいる。

ただ、なぜだろう。

陽が沈んで、夜な夜な部屋に1人になると
ふとした瞬間に何度も、そんな気持ちが湧いてきた。

「たとえまわりに恵まれていたって、結局のところ、私は孤独なのかもしれないな。」

孤独じゃないはずなのに、
孤独だなんて思うのはなぜ?

それは本当に自分が思っていることか?
”本当の気持ち”ってなんだ?どこにある?

そもそも”本当の気持ち”なんてものは
この世に存在するのだろうか。
本当とそうでないものの境い目ってどこだ?…

そんな、考えても無駄でよくわからない問いのループにはまっては、宙に投げ捨て、一旦考えるのをやめた夜が何度もあった。

いわゆる「病み期」ってやつだったのだろうか。深くて静かな夜にのまれにいき、疲れた挙句、それは「諦め」に変わっていった。

***

今、客観的に振り返ってみると、その頃は自分の”本当の気持ち”に対して、蓋をしてしまっていたことが全ての要因だったのかもなと思う。

きっと誰もがひとつは持っているのではないかと思っているが、そのときの私には、誰にも言えなかったことがあった。

自分の中でだけ、それと戦っていた。
何くそ負けるか、と。
もうとっくに心は折れていたけど、
それを認めたらもう、走れない気がした。

だから偽った。
偽った自分でいるということに対しても、
自分に嘘をついた。

そこに”私”は、いなかった。

***

日々そんなよくわからない思考を巡らせていく中で、大体は考え疲れて一定のラインで止まるのだが、たまにどうしても眠りにつけない日があった。

そんな日は、夜な夜なラジオを聴き流した。
電波に乗って流れてくるとりとめもないおしゃべり。
目の前に人がいるわけではないけど、こんな時間に起きている人がいると思うとホッとした。

ときに、悩みを抱える同世代の声を聞き、彼らのお便りに対するパーソナリティの言葉に目の奥が熱くなったこともあった。

家の中で、日常の一部として流していた
ラジオというものが大好きになった瞬間でもあった。

そんなラジオから流れてくる音楽にも、
何度気持ちを奮い立たせてもらったことだろう。
「リクエスト」としてメッセージと共に添えられた一曲には、元々アーティストが込めた熱量にメッセージの送り手の熱量が加わっていて、まるでライブの最後の1曲が始まるリアルタイムのあの瞬間のように感じて心が揺さぶられた。

そしてあるときを境にして、
さみしい夜にはペンを持つようになった。

自分の中に芽生えた気持ちや、考えたこと。
ぐるぐる考えては宙に放り投げていた星屑たちを、ある1冊のノートに書き留めた。

日々のあれこれを書き留めていくうちに、いつの間にか、自分という人間が2人いるという感覚を持つようになった。

1人は、現実世界で生活を営んでいる私。
もう1人は、ノートの中に出てくるkasumiちゃん。

これは最近読んだ本の中に出てきて、やっとこの子の正体がなんなのかを言語化できた。

どうやら人は、自分の身に起きたことも一人称を「私」として書くのではなく、三人称の「kasumiちゃん」とすることで、自分とは別の登場人物として客観的に捉えられるようになるらしい。

もうどっちがどっちなのかよくわからないけど、私はこれまでに何度もkasumiちゃんを助けたし、私も彼女に助けられてきた。

そうして過ごしていくうちに、自分の気持ちに蓋をしたままでいることに対して、違和感を覚えるようになった。自分のとった言動が本心とはずれてるぞ、ってサインだったのだと思う。

ノートに書かれたkasumiちゃんの文字を目にして、「でも、あなた本当はこうしたいでしょ?」と彼女に問いかけては、その言葉がそのまま自分にブーメランになって返ってきた。

そんなこんなでしばらくして、短大を休学するという道を選ぶことになり、これを機に大きく、価値観ややりたいことに対する受け止め方が変わっていくことになった・・・

***

さて、ときを戻そう。

社会人になった今、kasumiちゃんがノートに出てくることはほとんどない。

いや、本当は今もここにいるんだろうけど、自分とその子が分かれているという意識がほぼなくなってきた、という表現の方が正しい気がする。

それはきっと、長年積み重ねてきた習慣がそうしている部分もあれば、ありがたいことに、まわりに腹を割って話せる人たちが増えているからだと思う。

***

あの夜、ひとりぼっちだった私は言っていた。

「私は、ここにはいない」と。

でも、本当の本当は、
誰かに言って欲しかったのかもしれない。

「あなたは確かに、ここにいるよ。」ってね。

「僕はここにいないほうがいい」という感覚がすごくあるから〈あなたは確かにここにいる〉って歌っている。それは、自分がそう言ってほしいからなんです。もちろん頭ではわかっているんですよ、自分は実際に存在しているって(笑)。本来は、いまこの場所でみんな堂々と朗らかに生きていいんだと思っているからこそ、そういう歌にしました。

<インタビュー>細胞レベルで決められたレールと壁をぶち破る――星野源「生命体」を語る

以上。源さんの感じていたこととはまた異なるけど、
インタビューをうけて、ぐるぐると考えを巡らせていた話でした。

***

私が尊敬してやまないアーティストは、自分が言って欲しい言葉を歌にしていると語っている。

これを、もし仮に「自分のために音楽をやっている」と捉えるとすると、おこがましくもその考え方はちょっと理解できる気がする。
自分が曲を弾き語りするときも、自分のために弾いて歌っているから。

音楽を聴く・歌詞を口づさむという行為は、なんだか不思議な力を持っていると思う。耳から入ってくる音も、外に発したはずの言葉たちも、巡り巡って自分の中に入ってきて、それがある種のおまじない(癒し)みたいなものになる。

そして、その時々に合わせてそっと背中を押してくれたり、
ときに優しくそこにいてくれたりする。

死ぬな 研ぎ澄ませ 
行け 走れ

ありがとう。
あなたは確かに、ここにいる。

そして、生活は、つづく。

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