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ほのぼの日和#18 名前

大学の卒論研究で、友達が名前の研究をしていたが、ここにきて名前の重要性というのを実感した。

私はウガンダにきて、ウガンダの知り合いからウガンダの名前をもらった。ウガンダでは、(ほかのアフリカの国、それ以外の国でもそうなのかもしれないが)伝統的なクラン(一族、一門)の名前がある。それぞれサルやライオンなどの動物だったり、食べ物だったりのトーテム(シンボル)があって、そのシンボルのものは食べてはいけないことになっている。私が名付けてもらった名前は「ナンカンジャ」で、クランはマッシュルームである。だから、私はマッシュルームを食べることはできないということになるのだが、私はきのこが好きなので平気で食べている(笑)最初名前をもらった時はなんのこっちゃわからなかったが、学校にきて初日、ウガンダネームはあるのかと聞かれ、答えたらあっという間に一気に広まった。そして、私は「ナンカンジャ」になった。

日本語の名前のあとに、このウガンダンネームをいうと現地の人には、それは驚くぐらいうけがよい。そして、きまってそのあとに「クランは何か」と聞かれる。私の場合はオブティコ(マッシュルーム)だと答えると爆笑が起こる(笑)受けがいいし、私の名前はウガンダの人にとって発音が難しいらしく、なかなか覚えてもらえないため、ウガンダネームをよく使う。学校では、そっちの名前で呼ばれることの方が多い。私自身気に入っている。

余談だが、ウガンダではこの名前におもしろいルールがある。私の名前のように「ナ」から始まるのは女性の名前が多く、「セ」から始まるのは男性の名前が多い。「セブーニャ」という名前をもらった日本人男性の学校に遊びに行ったとき、私は「ナブーニャ」と呼ばれた。ほかにもウガンダは双子が多いのだが、女性の双子は決まって「バビリエ」「ナカト」、男性の双子は「ワスワ」「カト」、双子の両親は「ナーロンゴ」「サーロンゴ」と呼ばれる(これはウガンダ首都近郊のブガンダという部族の呼び方、ほかの地域だと別の呼称になる)。学校にはたくさんの「バビリエ」がいることになる。そして、同じクランだとわかるとシスター、ブラザーになって親近感が増すようである。

さて、本題に戻ろう(笑)名前を呼ぶこと、呼ばれることについてだが、ウガンダにいると大抵周りの人から「チャイナ」「ムズング(白人の意)」で呼ばれる。それは、もう耳をふさぎたくなるぐらい、会う人、会う人、「チャイナ、チャイナ」「ムズング、ムズング!」と呼び、子どもは叫びながら走ってくる。最初は、「チャイナじゃない!ジャパンだ!」と返していたが、次第に無視するようになる。
しかし、学校の中では私の存在が知れ渡るにつれ、「ムズング」「チャイナ」と呼ぶ人はいなくなる。みんな、先生も生徒も「ナンカンジャ」「マダムナンカンジャ(ナンカンジャ先生)」と呼ぶようになる。それは、まぎれもない私を呼んでいる。肌が白い(黒くない)、海外の人、アジア人、日本人ではなく、まぎれもない“私”を呼んでいる。呼ばれれば呼ばれるほど、私はナンカンジャになる。はじめは誰を呼んでいるのか腑に落ちなかったこの名前は、私の中にどんどん染み入ってくる。肌が白い、どこの国の出身であるというようなステータスではなく、私を呼んでくれることは、私がここにいていいのだという実感を与えてくれ、言いようのない嬉しさがこみあげてくる。

そして、これは私が名前を呼ばれることだけでないことに気づいた。最初のころは聞きなじみのないウガンダの人々の名前を覚えるのがとても大変であきらめかけていたが、ひょんなことから名簿を手に入れ自分が受け持つクラスの名前、かかわりが多い生徒を覚えようと努力し始めた。私が生徒の名前を呼ぶと、生徒はとても驚いた顔をする。先生、何で知ってるんだ!って。そして、周りの生徒もどよめきたつ。名前を呼ぶことは、だれでもいい誰かを呼んでるのではなく、世界にたった1人しかいないその人を呼ぶことである。名前を知るというのは、今までひとくくりに「ウガンダ人」であったのから、その人自身のことになる。たとえば今までなんでウガンダ人はこういうことするんだろうという思考だったのから、なぜ彼はこういう行動をするんだろうというたくさんいるウガンダ人ではなく、たった一人の彼の行動の理由を考え始めるようになる。そして、たった1人のその人のことを知ろうとする。ウガンダ人であることには変わりないが、その名をもつたった1人の目の前にいる人のことを。

名前を呼ぶことは、その人と私の関係を取り結ぶ最初の一歩なのかもしれない。

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