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むだばなしは、ムダなのか?





おはようございます、きゅうじつのあさです。関東は梅雨入りまだでしょうか、少々そらが明るい、雲はありますが。さて、故河合隼雄先生は、心理のことをいうと、矛盾というものにたくさん、突き当たるんでっせ、のようなことを書かれてもいたし、仰ってもいた。が、まあ、矛盾というもの、これは理屈ばってもの言うひとからみると、矛盾はなあ、あまりよくないというか、優柔不断のようにとられたり、いろいろですな。





でも、絶対矛盾的自己同一っちゅう、ことばもありまして、要は矛盾っていう概念装置というか、まあ、もっというと、身体に根ざした「反応装置」でもってそう捉えてるわけで、そこがパッと外れる、ああ、どっちもありや、どっちも矛盾でもあり同一でもあり、もっというと、矛盾でもなく同一でもないということ(シンクロニシティ!)っちゅうことがつかめてくると、そこがコスモロジーの入り口であり、出口であるという。





それが無門関ってことで、この関をとおらば、もうこの関は無し、通る要もなしってことですなあ。っておもうんですよ。で、タイトルの話にもどると、そういう心境になると、馬鹿話も馬鹿でなく、無駄話もムダではないっていう。まあ、ことさらに悪口やら、噂話ばかりするのもなんですが、それをしたからってこう、みょうに潔癖になると、まあ、くるしいんですな。それで、一切苦しみなんていって、こう、追い詰めてみたり、挙げ句のはてには、ひとを難じたりする、のは、どうか。




ともかく、満点をおいすぎるのもどうかと思うし、かといって、60点でいいんだよ、なんてふわっと言うのも違うと思うんですよね。ようは、実物に触れているか、っていうことで、なかなかこれがむつかしいと、ラカンっちゅうひとはいうてた訳です、一生涯かけてね。私も厳密にいうと、それはむつかしいようにも思います。が、一切無、no nameっていうことは、そう、そういうもんがパッと開けるときは、あるんですね。で、私の場合はそれは瞑想やら坐禅やってて。だから、修業が必要っていう考えにも傾きがちなんですが、なにもそう、目くじらたてんでもいいと、今は思います。



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