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反応せず、という反応





おはようございます。久しぶりの更新です。しばらく、体に傾いていた私の意識ですが、体調い、するとまあまた頭に戻ってくるんですね。で、頭の分泌物(@内山興正師)がたまってくる。で、そこをまあ、また弄ってみて、まあ、ムダといえばムダなんですが、ちょっとした膏薬のようなものにはなります、心のね。




で、仏教の話などしてみると、こう、ひとつには反応をしないのが理想なんて言ってみて、そうかな?と思うんです。リビングデッドよろしく、そんな活き活きとしていないものが、ひとの「理想」として、提示されるものならば、いかんのじゃあないかなということで。で、それは「無反応」っていう反応をしているんですよね。なら、何も話さない、それなら反応していない、でいいか。ってそれもまあ、ご苦労な訳で。





ここでまた、体の話に戻ると、我我の体というものが、日々、外界の環境に対して「反応」を示していくことによって(反応ということばがいやなら、対応・対処というかな)ひとの健康というものがある訳でしょう。だからまあ、心だか思考だか分からんが、そこだけ頑張ってみて、反応せず、なんてやってみても、それは不自然なものです。動ぜずとかね、格好いいけれど、まあ、そこそこ鈍くなったら、辞めといた方がよろしかろうとは思います。これは吾が老婆心ですが。





そしてまた思うのは、この、無反応、動ぜず、というところに、どこか他を見下したような匂いを感じるんですよ。そこがね、どうもわたしゃあ、好かん。それはあなたの無明なんですと言われるかもしれませんがね。人は常反応して生きていく、失敗もする、しくじりも、でも、汗をかいて進めていけば、いいことも沢山ある。そこじゃあないかな、ってね。ま、そんなところです。



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