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『風土記』をかじりながら考えた、日本人とムラ社会。

『風土記 日本人の感覚を読む』を読みました。(なんか、読む読むってうるさいですね)
古代史について調べていて、『古事記』『日本書紀』と並んで気になるのが『風土記』。
本来なら原本を当たるべきところですが、素人なので解説本から入ります。

この本は『風土記』素人でもわかるように、『風土記』の成り立ちから、その特色に至るまでを、分析、説明されています。

『風土記』って、地域の民話や伝説などをまとめた読み物なのかと思っていたんですが、全然違っていたんですね。
ヤマト朝廷の指示の下、地理、戸籍、産業などを報告する文書だったとは!
成立年代は大宝律令の少し後。
もう、ヤマト朝廷が全国支配する気満々の命令ではないですか。
当時はまだその影響力は近畿地方どまりで、列島各地にはその土地の豪族による支配が残っていましたからね。
権力拡大を狙うなら、外堀から埋めていく……ということですかね。

そんな『風土記』ですが、この解説本を読んでいくと、当時の人々の時間に関する感覚が、なんとなくわかるような気がしてきます。
つまり、「今」と「昔・古」の区別しかない。
ヤマト王権が「○○天皇何年」などとやっているのも、地方の人にはどうでもいいというか。「○○天皇の時代」という区別はあっても、そのくくりはざっくりとしたもので、でも、それで誰も困らない。
朝廷は、中国との外交上、細かい体裁を整えた支配体制の確立が必要なのかもしれないけれど、そんなの知らんわ、関係ないし、うちらの生活に影響ないし……という感覚だろうかと思うと、どきどきしますね。
事実、この『風土記』も、朝廷の指示通りのものを提出してる地方の方が少数派なんて、のどかなんだか、支配の駆け引きなんだか。地方王国を応援したくなります。

その地方王国についてですが、読んでいくと、農業経営の重要さというのをすごく感じます。
生きていくための農業!
農業を主導し、民の生活を豊かにした人こそが、王なんですね。
だから、出雲国で農地開発をしたオオクニヌシが、常陸国で井泉開発をしたヤマトタケルが、英雄扱いとなる。
まあ、宮廷の中に閉じこもっている人が王として崇拝されるような、そんな優しい時代じゃないですわな。結果を出さないと。
とにかく、今日を明日を生きていくのが大事な時代。みんなで働いて、収穫して、一年乗り切るための貯えをしないと、生きていけない時代。
もちろん第一次産業だけでなく、第二次産業もあったと思いますが、そういう職人を養うためにも農地は必要なわけで。

そうして人々の生活が出来上がってくると、今度は別の諍いもあらわれてくるわけで、例えば水争いとか。山の向こう側の奴らばかりが水を引くといったような、そういう諍いも起こり、それが収拾のつかない状況になっていったんでしょう、一応の決着を見た現状を「神様が決めたこと」のように伝えることで、あとくされの残るのを回避しようとした先人の知恵かいな、と読みながら感心したり。
街道を通ったら半数が神様に殺される、なんて、そりゃ道路整備されてるわけないし、野山に獣も毒蛇もいるやろし、行った先のムラで旅館とかあるとも思えないし、野宿なんかしようものならそれこそ死まっしぐらやし、そういう危険性を表現するのに、神様をもってくるのは手っ取り早いわな、とか。
そんな時代に、朝鮮半島から渡ってきた人々がいて、いや、もちろん最初に来た人たちは農業を指導する側の人たちだったろうから、在来の人々には受け入れられやすかったろうし、鍛冶技術を輸入することでウィンウィンの関係も築けたろうけど、だんだん増えていくと、衝突もあったかもしれないし、それでも牟礼山という地名が、古朝鮮語のムレ(山)と日本語の山とでできていることから融和を示す……なんて書かれていると、嬉しくなっちゃいます。
古代の日本って、渡来人と在地人はもちろん、感覚的に天と地、神と人も共存していたような時代だったようです。
『古事記』『日本書紀』と違い、『風土記』の中では、神様は天と地を行ったり来たりするし、権威でもって格式張っていない。

というようなくだりのあと、巻末に伝説的な物語が二編、取り上げられています。
童子女松原の話と、天女追放の話。ともに、ムラ社会における異分子排除の話で、一気に生臭くなります。
簡単に書くと、ムラのルールを破って恋仲になった男女が、恥を感じて松になる話と、羽衣を取られて老夫婦に仕えるようになった天女が、ある日突然、異分子であるという理由から老夫婦に追い出される話。どちらも現代感覚だとツッコミどころ満載なのですが、男女も天女も、ムラ社会が追い出したくせに、悲哀物語として消費する気満々。今どきのワイドショーと同じです。

日本で、島国根性とか、ムラ社会とか、同調圧力とかがなぜ生まれたのかって、災害の多いこの狭い島から出られないからだ、とずっと思っていました。
我々は島から出られなかった。でも、渡来人たちはこの島に逃げてきた。
というところで、以前読んだ『地名の古代史』を思い出しました。

『地名の古代史』において、朝鮮半島から見ると南の日本で農業をやるのはたやすい、というような記述がありました。
北から南には逃げやすい。なぜなら、農業がしやすいから。
しかも、釜山から九州は近い。近ければ、気候の違いもさほどではなく、朝鮮半島で培った農業技術が、日本でも活かせただろう。

では、日本で戦乱から逃げようとすれば、どこに逃げる?
日本の南には、奄美や沖縄などの小さな島しかありません。
しかも、本州からは遠いので、気候が違う。覚えた農業技術が役に立たない。
北には広い大地が広がっている。アイヌの方々は北に逃げました。ただ、北は寒く、農業をするには過酷。生半可な気持ちで移住するのは、死にに行くようなもの。

だから、逃げ場がない。
ユーラシア史を見ると、古代においては民族大移動があったりもしますが、日本においては逃げ場がない。
生きるか死ぬかの極限のときでさえ、踏みとどまらないといけない。
そのストレスが、同調圧力と排除の論理に向かうんだなあと思うと、なんかね。哀しくなってしまいますね。
今も、コロナ禍で移動できないですしね。生きるか死ぬかが現実問題になってますしね。
でも、本当は、昨日の続きの今日、今日の続きの明日が来るなんて、幻覚だったんだよなあ……と思ったり。

私は、歴史史料って、権力者はもちろん、市井の名もなき人々の声をもすくい上げる記録文書だと思っています。
詩や小説は、それを語る言葉を持っている人だけが語れるものだから、言葉を持たない人の声は残せない、とも思っています。
ただ今回、伝承物語が語り残す力というのを、感じずにはいられませんでした。
物語の中にこそ、日本人の性質がより濃く残るのは事実。
やばいなあ。興味の幅が、どんどん広がっていくじゃないか。
我々とは何なのか。角度を変えて考えることも必要なんでしょうね。

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