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フランクルの『夜と霧』を100分de名著テキストも含めて読んで、考えた誤読。

フランクルの『夜と霧』について、新版と100分de名著のテキストを合わせて読みました。

『夜と霧』は、第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に入れられ、その過酷な収容所での日々を生き抜いた精神科医・フランクルが、極限の状態の人間心理を綴った作品です。
精神科医目線で、被収容者の心理について書いた本ですので、歴史として収容所の告発ではなく、人生とは何か、生きるとはどういうことか、そういったことを中心に思考しています。

実はこの本は再々読くらいなんですが、いかんせん10年くらい前に読んだのが最後なので(この辺の記憶も非常に怪しい)、ひたすら地獄! だけど愛する家族の思い出が生きる力になる……という程度のことしか覚えていませんでした。

今回、100分de名著のテキストも合わせて読むことがかない、おかげで自分では気づかなかった視点に気づけたり、フランクルの人となりに近づけたような気にもなり、意義深い読書体験を得ることができました。


100分de名著ブックス『フランクル 夜と霧』について

自己啓発本として『夜と霧』を読んでる

まず、100分de名著の『夜と霧』の回を、私は観ていません。
10年以上前の放送なんですね。
放送は観てないんですけど、テキストを読んでいると、フランクルの人となりや、大戦末期にどういうルートをたどって奇跡的に生き延びたのか、そのあたりの説明がわかりやすく、ありがたかったです。

ただ、テキストの構成が自己啓発本っぽかったので、そんなふうに読んでいなかった私としては、驚きでした。

確かに、私が『夜と霧』を始めて知ったのも、大学の教育心理学の授業でしたし、フランクル自身が精神科医目線で書いたことを強調している本なので、むしろ歴史学目線で読む方が誤読に近いのかもしれませんが。
逆に、そこまで振り切って読んでよかったの? と、目から鱗な感じでした。

人生の意味と価値

自己啓発本的に解説している100分de名著ブックスなので、フランクルが多分言いたかったであろうことを、コンパクトにまとめられています。
すなわち。

人生の意味は、人間が問うものではなく、人生の様々な状況に直面した時にどう応じていくか、人生から人間が問われるものである。とか。

価値には三つの種類があり、

・創造価値:ものをつくること。目の前の自分の仕事に最善を尽くすこと。
・体験価値:自然とのふれあいや、人とのつながりの中で実現される価値。大切な人との愛の記憶。
・態度価値:引き受けざるを得ない運命に、その人がどんな精神・態度で相対するのか。

というふうにまとめられています。

人生の意味や価値に、自分が何をしたいかとか、どうありたいかとかがないんですね。
目の前の、突きつけられている人生(運命)に、どう対応してくか。

先ほどから自己啓発本だと言ってますが、「あなたには潜在能力がある」的なのに慣れてると、かなりきついかもしれません。
状況に対して、受け身な印象がすごくあるので。
てか、そもそも状況は過酷である、という前提ですべての話が進むので、逃げられないし変えられないというのが絶対条件になっているんですね。

なので、解釈本ではなく『夜と霧』本編の方を、読む必要が出てくるわけです。

フランクル『夜と霧』新版 について

旧版と新版について

『夜と霧』には旧版と新版があり、それは単に翻訳者が違うというだけでなく、読んでいくとフランクルの原稿そのものが若干違うようです。
私はより読みやすいであろう新版しか、読んでいません。
普通、新版が出ると旧版は消える運命にあるんですが、『夜と霧』に限ってはそれがないんですね。今も、旧版が書店に並んでいます。
というくらい、意味のある本なんだと思います。

ユダヤ人の抱える歴史性

旧版の翻訳者である下山徳爾氏は、「フランクルはヘブライズムから自由であった」と仰ってますが、ユダヤ人だから……というのはあったような気がします。

つまり、なぜユダヤ人は逃げたり暴動を起こしたりせずに、整列して、強制収容所に、ひいてはガス室に、送られていったのか。

これはハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』を読んだときに気づいたことですが、なぜ自ら殺されるとわかっていたのに粛々としたがったのか、本当に謎ですよね。

ユダヤ人の数に比べたら、ナチスの数なんて少数派やん。
逃げたり反撃したり暴動を起こしたりすればええやん。
そりゃ、武器を持ってる相手に歯向かうのは怖いけど、黙ってたって殺されるだけなら、みんなで反撃すればええやん。

ただまあこれは結果論というやつで、同時代の人からしてみたら、土木工事の強制労働にかり出されるだけだろうとか、おとなしく耐えていればいずれ釈放されるだろうとか、そういう淡い期待があったと思うんですね。
てか、普通そうだから。
毒ガスで大量虐殺するなんて、常識的にみて、考えないから。
実際、そういうことにかまけてるから、ナチスは負けたわけで。

ここで、それでもフランクルのユダヤ人特性が気になったのは。
2000年間、自らの国を持たないユダヤ人の歴史を考えたら、団結して能動的に社会を変えようとするより、状況に合わせて対応していく方を取るよね、と思ったからです。

国を失い、難民となって2000年弱。ユダヤ人は世界中に散らばって、各地でコミュニティをつくって生き延びてきました。
今でも難民問題があるように、状況によって保護されたり迫害されたりしながら、経済的才能を駆使して、生命と財産を守ってくれる国家を持たない代わりに、ネットワークを築いて生き延びてきた人たち。
そもそも、ヨーロッパのキリスト教社会において、ユダヤ人は、イエスを処刑した人たちの末裔扱いだったそうですから(でも命令したのはローマ帝国)、宗教理念問題になると、なかなか難しいです。

そんな2000年近く迫害も受けてきた人たちですから、政府や社会に自分たちの不遇を掛け合ったって無理じゃんって、もう諦めてしまう傾向があったのではないかと思います。
下手に不満を口にすると、他の民衆からも攻撃を受ける。
あれ? どっかにそんな国がありますね? 今現在。

働いても働いても暮らしは良くならず、不平を言えば自己責任とされ、粛々と収入の半分を納税し、私腹を肥やすこと以外、ろくに政治もできない世襲貴族たちの地位を守ってやる、民主主義の国の市民たち。
社会が大きな強制収容所でないと、どうして言えましょうか。
まだかろうじて脱出するすべは残っているものの、それでも「頑張っていれば今の暮らしは守られる」と思う人も多く。

当時のユダヤ人の感覚は、とても他人事ではないのでは?
なぜ我慢しているの? と、後世の人々に問い詰められるかもしれません。

精神科医だから、個人の生きざまを考えている?

フランクルは精神科医なので、個人の精神に注目します。
それは当たり前のことかもしれないけれど、考え方の枠が個人なので、ともすると自己責任論に至りかねません。

環境に適応しなければ、生き抜けない。
『夜と霧』にも「いい人は帰ってこなかった」とあります。
過酷な収容所生活に適応し、心が麻痺していき、仲間の死体を眺めながらスープをすするようになる。
それでも絶望して命を投げず、人間性を捨ててしまわず、愛する家族の思い出に浸ることができれば、生き抜く力につながる。

とはいえ、それらも生存バイアスじゃないかなあと思わずにはいられなくて。
読んでると、何のかんの言いつつ、フランクルだって「医者」の肩書を利用して自分の命を守ってたし、病人収容所の医師の立場で、病人被収容者を怒鳴ったりしてたよね? と窺える部分もある。

フランクルと同じように状況に適応し、同じように一度は心が麻痺しつつ、それでも人間性を手放さず、何とか生き抜こうと頑張った人はたくさんいるはずなのに、それでも多くの人が帰ってこなかった。
そもそも最初にアウシュヴィッツに移送された時点で、フランクルはたまたま労働者側に振り分けられ、それは本当にまぐれみたいな確率で、ほとんどのユダヤ人はガス室に消えていった。

個人がどんなに努力したって、最終的に決めるのは、運。
傾向として、家族を思い出したり、やり残してる仕事を希望にしたりした人たちが、生き続けることをやめなかったという事実はあったのかもしれないけれど、その人たちが必ず生き残れたわけではないし。
運よく生き延びられたとしても、戦後、家族がすでに亡くなっていることを知って絶望したり。フランクル自身がそうですね。

精神科医だから、個人の精神に注目するけど、個人の気の持ちようだけで生き残ることはできない。
最終的な決め手は、運。

だから、苦悩することも、絶望することも、死ぬことすら生きることの一つで、大事なのは生き抜くことではなく、どう苦悩しどう死んでいくかだと。

え?
それはちょっと冷酷ではないですか?

究極的には、人は生き抜き続けることはできないし、逃れきれない死にいつかは屈服することになるわけですが。
だから、余命宣告を受けたときの覚悟という意味で、どう死んでいくかというのは、向き合わなきゃいけない問題だと思う。
それは、まだまだ死を遠いものだと思っている我々も。

それが冷酷でもなんでもない現実が、強制収容所生活で、民主主義社会はどうにかなるかもしれないけれど、死の迫った自分の肉体から苦れることはできない。
その達観性が、フランクルの背骨となっているものなのかもしれません。

おわりに

『夜と霧』に限らずですが、著者のメッセージを絶対的なものとして受け取ってしまうと、読者が勝手にメッセージの応用範囲を広げてしまい、時に著者の想いに反する範囲にまで、メッセージを当てはめて解釈してしまう場合があります。
フランクルのメッセージも、一部を絶対視してしまうと、本意から逸脱する危険性が高く、誤読専門の私が言うのもなんですが、注意が必要だと思います。

そしてやっぱり、『夜と霧』を自己啓発本的に読むのも、私はあんまりしっくりきません。
民主主義社会に生きている以上、諦めて環境に従う前に、やることがあるだろう? という部分は、諦めたくないので。

などと、好き勝手に書いておりますが、フランクルの『夜と霧』は、一度は読んでおいた方がいい名著です。
みすず書房の本にしてはお手頃価格ですし、何なら地域の図書館には絶対ある本です。多分。きっと。司書さん、入れてますよね~?
この本は、全方向にお勧めの本です。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


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