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江戸城はなぜ皇居となったのか?

東海道・山陽新幹線沿線には、日本を代表する多くの城が存在しています。2015年に刊行された書籍『新幹線から見える日本の名城』(加唐亜紀 著)から、その内容を一部抜粋してご紹介いたします。

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 江戸城は、徳川将軍が14代まで居城とした権力の中心だった。あれ? 徳川将軍は15代までいたのでは? と思われるかもしれない。確かに徳川将軍は15代までいたが、最後の将軍徳川慶喜は、京都への出張中に将軍となり、大政奉還をして将軍を辞めてから江戸城に戻ってきたので、将軍としては江戸城に住んではいないからだ。

 記録を見ると、冬はボヤを含めると火事がない日が見当たらないほど江戸は火事が多かった。明暦の大火で、天守をはじめ城の建物のほとんどを焼失してしまう。その後も何度かの火事があり、将軍が住む本丸御殿は世子が住む西の丸御殿とともに文久3年(1863)の火事で焼失、西の丸御殿は再建されたものの、本丸御殿は再建されずに明治維新を迎えてしまった。

 幕末に徳川家の象徴である江戸城や、そのおひざ元である江戸城下を焼きつくすという計画もあったようだが、西郷隆盛と勝海舟との会見や山岡鉄舟、天璋院、和宮(かずのみや)などの尽力によって、江戸城も江戸の町もほとんど無傷で新政府に引き継がれることになる。

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 江戸城は徳川政権の象徴だったから、破壊してなくしてしまいたいのだろうが、それが叶わないとなると、権力の主が変わったことを広く知らせるにはどうしたらいいのだろうかと考えて、徳川将軍たちの住んでいたところを天皇の居所とすることにしたのだろう。

 しかし、新政府軍には金がない。そのため江戸城に入って徳川家が隠していたはずの金を探したくらいだ。だが、金は出てこなかったため、新しい建物を建てる余裕がなく、西の丸御殿に入ることになった。これが現在の吹上御所(ふきあげごしょ)などがある場所だ。本来将軍が住むところだった本丸は、現在広場となり、開放日には一般に公開され、隠れた観光名所となっている。

出典:新幹線から見える日本の名城
※この記事の内容は書籍刊行当時(2015年)のもので、現在とは異なる場合があります。詳細は、お出かけの際、現地にお確かめください。
※本記事で使用している写真と、書籍に掲載されている写真は異なる場合があります。

本書では、新幹線の駅や車窓からお城が見えるポイントや「ゆかりの名物」、お城に関するさらに詳しい解説などが読めます。

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著者:加唐亜紀(かから・あき)
編集者。長年、歴史関連書籍の編集に携わった後、独立。歴史分野を中心とした編集、執筆業務を行う。主な著書・共著に『写真と絵でわかる日本の合戦』『ビジュアル百科 日本の城1,000城』(西東社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研パブリッシング)、『“復元”名城完全ガイド』(イカロス出版)、『歴史道 vol.3』『歴史道 vol.10』(朝日新聞出版)等がある。

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