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平安時代の感染症対策をルーツとする御霊会(1)疫病退散を祈願した神泉苑の法会

文・ウェッジ書籍編集室

 5月下旬に緊急事態宣言が解除されたとはいえ、まだまだコロナ禍の完全な終息には至っていない日本。人間と疫病(感染症)の戦いは今に始まったものではなく、文献によれば、平安時代の日本人も幾度となく苦しめられていました。また、富士山の噴火や貞観大地震など、さまざまな災害にも苦しめられてきました。
 これらの疫病や災害は、当時、無実を訴えながら死んでいった人が、御霊となって引き起こしていると考えられました。そこで御霊を鎮め災厄を祓うために執り行われたのが、現在の祇園祭のルーツともされる御霊会(ごりょうえ)です。
 ここでは、9月発売予定の『京都異界に秘められた古社寺の謎』(民俗学者・新谷尚紀 編、ウェッジ刊)の中から、日本で最初に執り行われた御霊会についてみていきます。

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庶民も集まった神泉苑の御霊会

 平安遷都からおよそ70年後の貞観5年(863)5月20日。新暦では6月なかばの梅雨入りの時期にあたるこの日、大内裏(だいだいり)の南にあった神泉苑(しんせんえん)は、大勢の人間でごった返していた。

 天皇の遊覧のために造営されたこの禁苑は、東西二町(約250メートル)、南北四町(約500メートル)という広大な敷地をもち、中ほどには大きな池が広がっている。大池に浮かぶ中島には大きな案(机)が置かれて、その上には六本の御幣(ごへい)が立てられ、手前には花果があふれんばかりに供えられている。

①神泉苑

江戸時代の神泉苑。基本的な姿は現在と変わらない(『都名所図会』)

 中島を臨む池のほとりに延べられた敷物には王公卿士がずらりと居並び、彼らの最前列には、清和天皇の勅使の姿もあった。王公たちの席の後ろには、幾重にも人垣ができて、池を囲んでいた。人垣を成していたのは、小袖姿の庶民や大人に手を引かれた童たち――ふだんは禁苑に足を踏み入れることが許されない人たちだったが、この日は宣旨(せんじ)により特別に4つの門が開け放たれ、誰もが自由に出入りできるようになっていたのである。

 苑内は蝟集(いしゅう)する人びとの声で騒然としていたが、やがて数名の僧侶が舟で中島に渡ると静まり返り、神妙な面持ちで合掌をはじめる人の姿もあった。僧侶たちは案の前に座すと、恭敬し、香を焚き、一斉に読経をはじめた。

 朗々とした声が苑内にこだましたが、それが終わらぬうちに、池に臨む御殿の南庭に笙(しょう)を手にした人びとが繰り出してきた――かと思うと、雅楽が奏でられはじめた。彼らは朝廷の雅楽寮の伶人(れいじん)たちだった。ほどなく鮮やかに着飾った童男童女たちが登場し、池辺を舞台として軽やかな舞を演じはじめる。

 いつのまに来ていたのか、そのかたわらには散楽師(さんがくし)たちの姿もあって、巧みな軽業曲芸を披露していた。苑内はいつしか歓声と喝采にあふれかえっていた――。

 以上は、史上初の「御霊会」の記録とされる、『日本三代実録』の貞観5年5月20日条の記述を、想像も多少まじえて、書き改めてみたものです。

②神泉苑CIMG3349

明治期に建立された鳥居。江戸時代から明治末まではここに山門(薬医門)が建っていた(京都市中京区)

もとは平安時代の感染症対策だった「御霊会」

 この日の神泉苑の催しは、なにも貴族や庶民の遊興のために行われたわけではありません。これは当時、宮廷人を悩ましていた怨霊の鎮撫と、都の住人をおびやかしていた疫病の退散のために行われた、国をあげての盛大な呪術的祭祀だったのです。

 平安時代の京都は人口密集地となっていましたが、汚水汚物の処理システムがまだよく整っていなかったので、衛生環境が悪く、京内には悪臭が漂っていたと考えられています。おまけに鴨川は大雨になるとしばしば氾濫したので、市街地に放置されていた大量の汚穢(あおい)・排泄物が京中に拡散され、井戸水も汚染され、衛生状態がさらに悪化していたと考えられます。

③丸太町大橋

丸太町大橋から望む現在の鴨川

 その結果、平安時代の京都では夏季を中心に赤痢などの疫病・伝染病がしばしば蔓延し、多くの住人を苦しめ、死に追いやられていました。たとえば赤痢の流行は、記録によって確認できるものだけでも、861年、915年、947年、1016年、1025年、1027年、1077年、1144年の計8回に及んでいます(高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』)。

 平安朝の歴史物語『栄花物語』には「今年は赤裳瘡(あかもがさ)といふもの出で来て」(巻第25「みねの月」)とあることから、万寿2年(1025)に麻疹(はしか)が流行したことがわかります。このときは、後一条天皇や皇太子(後朱雀天皇)、皇太子妃(藤原道長の娘・嬉子)なども罹患したとされています。

 繰り返される疫病の流行は、京の人びとにとっては切実な問題だったのです。今回の新型コロナウイルスのパンデミックからもわかるように、現代においても伝染病は人々を強い恐怖に陥れ、絶え間ない不安に苛まれます。いまから1000年以上も昔の医学的知識の乏しい時代であれば、なおのことであったはずです。

 それに今では、疫病の原因が細菌やウイルスであることはわかっているので、一定のスパンをへれば医学的に適切な予防法や治療法を確立することができますが、平安時代はそうはいきません。

 古代の人びとが何を疫病の病因として考えていたのかというと、それは政争に敗れて横死した人びとの怨霊の祟りであり、また異国・異郷から訪れる疫神(行疫神)でした。このことは、当時においては異論の余地のない“科学的常識”だったのです。

 これらの怨霊や疫神は「御霊」と尊称されましたが、強力な御霊は疫病だけでなく天変地異などの自然災害ももたらすとも信じられていました。そのため、平安京では疫病がはやりだす夏になると、その蔓延を防止すべく、「病因」である御霊を慰め鎮める法会(ほうえ)や神事・祭礼が行われるようになりました。それが神仏習合的な祭祀である御霊会の本質で、文献上のその初出が、貞観5年(863)の神泉苑でのものになります。

 法会に加えて舞楽や散楽までもが催されたのは、非業の死を遂げた怨霊を丁重に慰撫し、安らぎを手向けようとしたからだと考えられます。参列に一般庶民が許されたのは、彼らが疫病退散を心から願っていたことはもちろんでしょうが、にぎやかにもてなしたほうが怨霊の慰撫に効果があると考えられたせいでもあるでしょう。つまり、都人が総出して執り行われる神送りの儀式でもあったのです。

政争の生贄となった「怨霊」たち

 このとき朝廷や京の人びとが恐れていた怨霊とは、具体的にはどのような霊だったのでしょうか。『日本三代実録』によれば、神泉苑で慰撫の対象となったのは六座の霊、すなわち崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)の御霊です。

 いずれも、皇室や朝廷の有力者ながら、謀反の疑いをかけられて処断され、非命・非運の道をたどった者ばかりですが、もうひとつ彼ら6名に共通する点は、いずれも事件後に冤罪(えんざい)の可能性が指摘されていることです。つまり、皇位継承争いや貴族間の抗争に巻き込まれるようなかたちで、本人は無実であったのに、陰謀により罪を着せられ、政争の生贄(いけにえ)にされた人たちだったのです。

 言い換えれば、彼らが御霊会の対象になったということ自体が、彼らが冤罪だったことの裏返しであり、政争を生き残った当時の宮廷人が「無実の罪を着せてしまった」という罪悪感を抱いていたことの証しでもあるのです。これらのなかでもとくに怨霊として恐れられたのは、朝廷への強い抗議の意を示して異常な死に方をみせた早良親王でした。

 ここで、最初の御霊会が平安京外ではなく、その中心部である神泉苑で行われたのは、なぜだろうかという疑問が浮かびます。これについては、「苑内の広大な池水の浄化力が怨霊や疫神を祓ってくれると考えられたからだろう」と考えられています。御霊会のルーツとなった神泉苑は、往時と比べると面積は5パーセントほどに減っていますが、二条城の南側に現存し、東寺真言宗総本山の東寺が管理しています。

④神泉苑

神泉苑の法成就池。現在の神泉苑は平安時代と比べると規模が大幅に縮小されている

――神泉苑については、『京都異界に秘められた古社寺の謎』(9月刊予定、ウェッジ刊)の中で京都の他の古社寺とともに詳しく触れており、ただいまネット書店で予約受付中です。ご予約はこちらから。


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