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オスマン帝国的聖地 エルサレム案内【後編】|イスタンブル便り
この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、イスラエル・パレスチナへの旅【前編】に続き、【後編】をお送りします。
エルサレム旧市街には、目に見えない「意味」の網の目が、張り巡らされている。
一見迷路のようだが、古代ローマ時代のカルド(南北の軸線)と、それに交わる東西の中心街路を読み取ることができれば、構造が綺麗に透けて見える。この中心の四つ角を起点に、北東がイスラーム教徒、北西がキリスト教徒(カトリック、ギリシャ正教)、南西がアルメニア聖教徒、南東がユダヤ教徒、と、居住区が大まかに分かれている。
四つ角は、実際の街路の上では入り組みすぎて全体が見渡せない。だが、街路を覆う屋根の上に出てみると、足下に四つの地区の交わる地点に立つことができる。面白いのは、まったく違うスタイルのそれぞれが、密集した地域に、同時に存在している点だ。
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イスラーム、ユダヤ、カトリック・ギリシャ正教、アルメニア聖教というこの民族・宗教グループの構図は、オスマン帝国時代の民族構成の名残だ。わたしにとっては、そこがことに興味深く思える。共和国初期の民族浄化政策によって、トルコではもう、その世界はなくなってしまったからだ。思いがけないところで、オスマン帝国の残滓に行きあたった。
とはいえ、少なくともイスタンブルを含む旧オスマン帝国の東地中海に面した都市では、西ヨーロッパの都市の「ゲットー(ユダヤ人居住区)」のような特別な区分は存在しない。オスマン帝国では、民族・宗教的アイデンティティのあり方は、「◯◯教徒居住区」というようではなく、都市空間のなかでもっと緩やかに交差していた。そのようなひとびとの暮らしは、文学作品や、さまざまな民族的・宗教的アイデンティティの人物が多彩に登場する「カラギョズ」のような舞台芸術にも、片鱗が見える。
だから現在のエルサレム旧市街がそのままオスマン帝国時代の縮図と言えるかは疑問だが、意識して歩いてみると、それぞれの性格がよくわかる。イスラーム教徒の街区は賑やかで混雑しており、お店も客引きも多い。
それに疲れてキリスト教徒地区に行くと、修道院などのある街路は静かで店の佇まいもおとなしく、客引きはまずいない。
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アルメニア聖教の地区は高い塀に覆われた修道院の広大な敷地が続く。入り口だけは訪問できるが、外からは一向に様子がわからなかった。
ユダヤ教徒の地区は、ユダヤのドレスコードに則った人々(典型的なのは、黒い服に黒帽子の男性やターバンにふんわり花柄ロングワンピースの女性)が行き交い、学校などで子供達も多く見かけたが、 ものものしい武装兵隊の行列にも行きあった(後で聞くと、たまたま軍事学校の卒業式の日だったらしいが)。
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オスマン帝国時代、そのようなそれぞれの性格が、都市空間のなかで隣同士に混在し、関係しあい、お互いに敬意を保ちながらぶつかり合うことなく自分の居場所を保っていた。住民記録などからわれわれは知っているのだが、異なる宗教コミュニティ出身の男女間の結婚なども、当然あった。
もちろん、イスラームの盟主たるオスマンの支配下、という条件付きではある。だが、その時代の街の様子はどうだったのだろうと、わたしはほんのひととき、立ち止まって想像するのである(側から見ると、きっと変な人である)。
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* * *
旧市街を取り巻く現在のエルサレム新市街にも、目に見えない「意味」の網の目が張り巡らされている。
「ほら、あの通りから向こうが、<あっち側>なんですよ。わたしたちは滅多に、行きませんけど」
偶然知り合った現地在住のある人が教えてくれた。ここ数年の急激な政治的変化によって、エルサレムは東西に分かれた。だが、目に見える境界線が引かれているわけではない。指さされた先は、エルサレム城壁外の北西、市街電車の線路があるところだった。
通りを挟んでこちら側がパレスチナの東エルサレム、向こう側がイスラエルの西エルサレム、というわけだ。別に禁じられているわけではないが、住人は余程のことがない限りはお互いに<向こう側>に行かないのだという。この小さな街の中で。
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地元の人たちは食事に行くのにも、張り巡らされたそれぞれの「意味」のなかで行動するというのを、後から知った。衝撃だった。
無知で気楽な観光客のわたしは、まったく気付かずにそこを出たり入ったりしていたのだった。同じ街のなかで注意深くお互いを避ける、その張り巡らされた「意味」の背後には、重い生と、誰もが必ず覚えのある、身近な誰かの死の、悲しい記憶がある。そしてそれは今も、現在進行形で続いている。
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* * *
「イスラエルでは、学校でアラビア語を教えますか?」
ハイファにいた時に、学会のホスト役だった歴史家のZ教授に聞いてみた。生まれも育ちもハイファの人だ。
「高校の時に選択で取れるよ。僕も、基礎だけは習った。だけど、ヘブライ語はアラビア語ととても似ているから、ある程度勉強すれば、だいたいわかるようになるんですよ」
聞く機会がなかったが、果たして、パレスチナの学校教育では、ヘブライ語を学ぶことはできるのだろうか?
学会後の夕食時、隣り合わせた考古学者のT教授は言った。
「僕の妻はイギリス国籍で、僕の祖母は19世紀の終わりにアレッポから引っ越してきたんだ」
「へーえ、じゃあ、あなたはオスマン帝国にルーツを持つセファルディ(15世紀にスペインからオスマン帝国に移住したユダヤ人)?」
「と、言えたら簡単なんですがね。そう単純ではない。父方はロシア系です。そうすると、われわれは何なのか? 正確な答えは、誰にもわからない。だからね、<イスラエル人>というしかないんだね」
* * *
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エルサレム滞在最後の朝、Armenian Ceramics(アルメニアの陶器)とタイルの看板のある小さなアトリエを訪ねた。独特の色使いや文様もあるが、全体的に、オスマン帝国の伝統的タイルを思わせる作風だった。
尋ねてみて、やはり、と思った。20世紀初頭、「岩のドーム」の修復のためにトルコのキュタフヤから移住したアルメニア聖教徒の陶器職人の末裔だ。中央アナトリアのキュタフヤは、モスクのタイルの産地として有名なイズニックが廃れた後、18世紀ごろから勃興した陶器の街だ。そういう家族がいることは、「岩のドーム」の修復に長く携わったアメリカ人の美術史家の友人、ベアトリスから前に聞いたことがあった。
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「わたし、日本人ですけどトルコから来たんです。美術史家です。タイルの研究もしています。」思わず自己紹介した。
朝一番でアトリエを開けてくれたのは、まだあどけなさの残る若い女性だった。20歳になるパティルさんは、移住して来たのは、自分の曽祖父だと語った。そして父のアゴップさんは、キュタフヤから釉薬を運んで来て、古来の技法を復活させた、と誇らしげに説明してくれた。
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「将来は、どんなことがやりたいんですか?」
「この秋から、大学に入るんです」
「何を勉強するの?」
「工学を。そして、このアトリエを続けます」
「まあ、それは嬉しいですね。続けてくれるのね」
「はい、続けます。だって、伝統、でしょう?」
雪片、という意味だ、という名前の彼女は、そう言ってほほ笑んだ。
ムスリムの聖地、岩のドームを飾るタイルを作る、キリスト教徒の職人一家。そのオスマン的伝統の存続を喜ぶのは、目に見えない「意味」の網の目の中で身動きできなくなる重い現実の前に、あまりに楽観的過ぎるかもしれない。
しかしわたしは、絶望や悲しみを数えるよりも、希望や喜びを、少しでも多く見つける側でありたいと願うのである。
イスタンブルに帰ってきたあとも、奪われた心は引き裂かれて、一部がこの街に、この「意味」の網の目のなかに、まだとどまっている。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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