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あと一度しか旅に出られないとしたら、どこに行きたいですか? 川内有緒(ノンフィクション作家)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え、「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2020年8月号「そして旅へ」より)

 死ぬまでに一度は行きたい場所はどこですか? 

 ずいぶん前だが、友人や親戚にそんなアンケートを取ってみたことがある。別にプレゼントがもらえるわけでもないのに、75人が律儀に答えてくれ、そのリストはいまも大切にしている。

 ブータンやキューバ、マダガスカルなどの辺境が多いなか、4人が「宇宙」と答えたのが興味深かった。宇宙かあ。仮にオファーがあっても私は遠慮しておきたい。狭い空間に閉じ込められる、と想像しただけで後頭部がぞわっとするのだ。

 それより、当時の私の目を引いたのは、母の答えだった。

「ヨセミテ国立公園 雄大な自然の中でのんびり絵を描いてみたい」

 えええ!? 意外すぎる。母は、家で料理や縫い物をして過ごすことを愛し、自転車も乗りこなせず、温泉すら「面倒くさい」と言うインドア派だ。それが、あのロッククライミングの聖地、ヨセミテだって?

 改めて理由を聞いてみると、「最近テレビで見た」と言う。

 なんだあ、ただの思いつきか。とはいえ「死ぬまでに一度」である。そして母はもう60代後半。だったら元気なうちに連れていってあげなきゃ! と不肖の娘はやおら立ち上がった。そして、母は本当にいそいそと付いてきた。

 東京から飛行機でサンフランシスコへ入り、車で内陸方面に約4時間。辿り着いたのは、大都会・東京が2つも入るほどに広大で深い森だった。

 カラリとした夏の太陽の下、私たちはそそり立つ岩山を眺め、ものすごい巨木に驚き、しぶきをあげる川を渡り、木漏れ日の中でサンドイッチを食べた。あたりにはシダーウッドの香りが漂い、柔らかな風が吹いていた。

 眺めの良い場所を見つけた母は、絵を描き始めた。しばらくして、「どう? いい絵が描けた?」と尋ねると、「なんだか落ち着いて描けない」とこぼす。絵を描く人は珍しいのか、ハイカーたちがみんな絵を覗き込んでいくらしい。私は「そう」と答えて昼寝をした。

 ようやく描き終えたスケッチの出来は、確かにイマイチだった。そして「死ぬまでに一度」の願いのわりに、結局、母はヨセミテの3日間で2枚しか絵を描かなかった。

 あれから8年が経った。

 ここのところ世界は一変してしまい、もうあと何度遠くに行けるのかわからなくなった。だから、よく考える。あと一度しか旅に出られません、これが最後のチャンスです、と言われたら私はどこを選ぶだろうか?

 そのとき思い出すのが、あのヨセミテの風だった。ひんやりとして優しく、心地良い眠りに誘うあの風――。

 そう、いまこそ自らの意思で私はヨセミテを選びたい。そして、もう一度あの風に包まれて昼寝をするのだ。母にもまた絵を描いてもらいたいけど、次は「もういい」と言う気もする。あの旅は、たぶんあの時だけ――。

 ところで、あなたは、あと一度しか旅に出られないとしたら、どこに行きたいですか?

文=川内有緒 イラストレーション=林田秀一

川内有緒(かわうち ありお):ノンフィクション作家。フランス・パリの国連機関に勤務後、2010年、『パリでメシを食う』(幻冬舎)で作家デビュー。13年に『バウルを探して』(同)で新田次郎文学賞、18年に『空をゆく巨人』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。

出典:ひととき2020年8月号


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