永遠の旅人、松浦武四郎が画鬼・河鍋暁斎に依頼した涅槃図(東京都・静嘉堂文庫美術館で特別展)
地下鉄千代田線の二重橋駅を降りてすぐの重要文化財・明治生命館の1階にある静嘉堂文庫美術館は、世田谷区岡本の地より2022年に移転し、開設されました。三菱第二代社長岩﨑彌之助(彌太郎の弟)とその息子・小彌太が収集した美術品約6,500点が所蔵されています。
永遠の旅人、松浦武四郎
幕末から明治にかけて活躍し、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎は、三重県松阪市、伊勢街道沿い生まれの探検家で著述家、好古家です。全国から伊勢参りに訪れる人々の姿を見ていた武四郎は旅人への憧れの気持ちが強かったようで、16歳で江戸への旅に出て、19歳で四国八十八か所の霊場をまわり、20歳から九州各地をめぐります。
長崎にいた頃、ロシアの南下に危機感を持った武四郎は、弘化2(1850)年、当時未開の地であった蝦夷に向かいます。自費での3回の旅の記録をまとめた日誌が江戸で評判となり、当時ペリー来航などで開国を迫られて国境について強い意識を持っていた幕府からの要請を受け、今度は公費で蝦夷地調査に向かいます。安政5(1858)年に最後の6回目の調査が終わったのち、武四郎は蝦夷地に関する多くの出版物を発行します。明治2(1869)年には政府より開拓判官に任命され、武四郎がアイヌ語をヒントに考案したアイディアから、蝦夷地の新しい名が「北海道」に決まりました。順風満帆に思えましたが、武四郎は開拓使の北海道開拓のあり方に反発し、辞職してしまいます。
辞職した武四郎は、打ちひしがれるかと思いきや再び全国各地をめぐり、古物を収集します。中でも最も愛着のある品々をまとめた図録『撥雲余興』では、住まいが近く、人気絵師であった河鍋暁斎に挿絵を依頼します。武四郎は自ら絵を描くこともありましたが、より技術が必要な作品については、暁斎らプロの絵師に託していました。
画鬼と呼ばれた絵師、河鍋暁斎
7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門し、10歳で狩野派の前村洞和、洞和の師・洞白陳信に師事した河鍋暁斎は、美人画などの浮世絵はもちろん、水墨画など、様々なジャンルの絵画を手掛ける人気絵師でした。そのマルチタレントぶりに憧れ、鹿鳴館を設計したことで知られる建築士、ジョサイア・コンドルが弟子入りしたほどです。武四郎は明治14(1881)年、ともに天神(菅原道真)を信仰する暁斎に武四郎涅槃図の制作を依頼します。
暁斎が実際に着手したのは明治16(1883)年。己の道を突き進む当時の天才二人がお互いに刺激を受け合い、時には暁斎が武四郎のことを「いやみ老人」と日記に書き記すこともありながら、明治19(1886)年に作品が仕上がります。
美しい石が連なった大首飾りを身にまとった武四郎は中央でお釈迦様のように眠っています。悲しむ妻や可愛がった猫、武四郎が愛した品々が彼を取り囲み、中には菅原道真、岩倉具視とされる人物の姿も見られます。
武四郎が天神様を信仰していたのは、菅原道真が大宰府に左遷されたことを自身の境遇と重ね合わせていたためではないかとも言われています。岩倉具視は、武四郎が開拓判官に就任する際に尽力してくれた人でした。
武四郎は暁斎がこの涅槃図を制作している最中にも旅に出ています。何かに突き動かされるように旅をつづけた、生涯の旅人、松浦武四郎。彼が後世に残したかった品々が集結する本展覧会、ぜひお出かけください。静嘉堂文庫美術館が所蔵する国宝・曜変天目もお見逃しなく。
写真提供=静嘉堂文庫美術館
文=西田信子