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最果ての地で感じた小さな生活の営み|仁科勝介(写真家)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただく連載あの街、この街。第42回は、写真家の仁科勝介さんです。大学在学中に日本の全1741の市町村を巡り、いまも旅を続けている仁科さんが東北の地で出会った印象的な光景とは──。

2023年春から、平成の大合併で無くなった旧市町村を巡っている。大学生のときに現在の市町村を巡り終えることができて、大きな喜びと達成感に包まれたけれど、わずかな物足りなさがあることも感じていた。旅という行為への物足りなさではない。日本という土地の全体像を肌で感じ取るには、まだ足りていない、という感触だった。そうして旧市町村を巡る旅を始めて460日経つ。2200ほどの旧市町村を巡る旅であり、今は1200ほど訪れたところだ。

さて、青森県で有名な観光地はいくつかある。奥入瀬渓流や十和田湖、三内丸山遺跡、短い夏のねぶた……。そして、下北半島に位置する「恐山」がその話題にのぼることも、少なくはないだろう。「行ってみたい」「行ってきた」という話を聞くことも旅先で何度かあったし、ぼくも旅を通して二度訪れた。山奥に突如として現れる地獄と極楽の世界は、いつも強烈な気配を放っている。

恐山は下北半島のむつ市街地から車で20分ほどの場所に位置するが、青森市から訪れるのであればもっと遠い。同じ県でありながら120km近く離れていて、ゆうに2時間はかかる。その遠さがわざわざ訪れるという価値を高めているようにも感じられる。

だから、ぼくも恐山を訪れたときは「ついに来た!」という気持ちだった。しかし今回、旧市町村という旅に変わって、むつ市にも旧川内町、旧大畑町、旧脇野沢村があることを知った。そして、旧脇野沢村へ訪れるには、その遠いと思っていた恐山から、さらに50kmも離れていたのだった。

下北半島の陸奥湾沿いをひたすら西へ進み、半島の南西端へようやく辿り着いたところに、旧脇野沢村の市街地はあった。歴史は長く、116年間続いた旧村だ。それでも旧脇野沢村を知るきっかけは少ないかもしれない。地元の方々、下北半島に住んでいる人々、フェリーが運航しているのでその利用者、釣り人……。

旧脇野沢村の中心街へ着いたとき、声が漏れた。昔のままだ、と思ったのだ。地面から建物、電柱、隙間から見える空、目の前に見えているものすべてに、昔の面影が残っている。そこには急激な変化がない。かつて必要だからつくられた集落が、時代の影響を大きく受けずに、今日に至っている。昔の姿がそのまま残っているという町であった。

中心街からさらに西へ7km進んだ先には、「九艘泊くそうどまり」というさらに小さな漁村があった。コンクリートの道の先に、タイル調の古い道路がつなぎ合わさっていて、その古い道路の先は、モノクロ写真の風景が、鮮やかな色彩を放って現れたようだった。これほどまでに、変わらない時間の流れがあるのか……。九艘泊は険しい北海岬の断崖のそばにある漁村で、海岸線の道はここで行き止まりだった。最果ての地。そしてここにもまだ、小さな生活の営みがある。あまりに静かで長居すべきではないと思って、すぐに出発をした。

同じ日本でありながら、旧脇野沢村のように知られざる土地が、きっと日本には数え切れないほど存在している。大きな場所から観る世界だけでは見えないものが、世の中にはたくさんあるのだ。旧市町村とはいえ、どのまちを訪れても必ず誰かの現在進行形の暮らしがある。知らないだけで、日本中の土地は生きている。かつて森山大道さんは言っていた。「人がいて、街がある以上、そこにカメラマンがいないとダメでしょう」*。この旅を最後まで続けたい。

*『PHOTO GRAPHICA 2009 AUTUMN VOL.16』インプレスコミュニケーションズより

文・写真=仁科勝介

仁科勝介(にしな・かつすけ)
1996年、岡山県倉敷市生まれ。広島大学経済学部経済学科卒。広島大学在学中に、日本の全1741の市町村を巡った。『ふるさとの手帖』(KADOKAWA)『環遊日本摩托車日記』(日出出版)をはじめ、2022年には『どこで暮らしても』(自費出版)を刊行。

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