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名作が生まれる街・城崎温泉発の本と出会う|ホンタビ! 文=川内有緒

作家の川内有緒さんが、本に動かされて旅へ出る連載「ホンタビ!」。登場人物を思うのか、著者について考えるのか、それとも誰かに会ったり、何か食べたり、遊んだり? さて、今月はどこに行こう。本を旅する、本で旅する。

 京都を出発した特急「こうのとり」の中で、志賀直哉の小説『城の崎にて』を読んでいた。30年ぶりなので内容はほぼ忘れている。おかげで、最初の段落で、「???」が頭に浮かんだ。

 山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。

 電車に跳ねとばされる? いきなり大事故じゃないか!

背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に云われた。二三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。

 なるほど、そりゃあ大変だ。しかしなぜわざわざ城崎へ? 現在でも東京から城崎までは最速ルートでも5時間近く。大正時代にはもっとかかったはずだ。あの、箱根とかではダメだったんですか? 

 その後、主人公は温泉宿に3週間ほど逗留し、無事に帰郷する。ちなみにこれは、実際の経験をもとに書かれたものだ。20分ほどで読み終えた。

 さて、私も城崎温泉駅に降り立った。木造の温泉宿がずらりと並び、ゆったりとして情緒がある。街の中心には川が流れ、川沿いの道には宿や外湯の他にも、カフェや雑貨店がひしめいている。

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 さっそく老舗の旅館、三木屋に向かった。志賀直哉が投宿したことで知られ、ここで名作『暗夜行路』が生まれたという文学と縁の深い宿である。

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三木屋。『城の崎にて』が書かれた当時の建物は1925年の北但大震災で倒壊したが、志賀直哉は2年後の再建以降も度々訪れた。現在も残る文豪お気に入りの部屋の縁側から『暗夜行路』に描かれた庭園が眺められる 
☎0796-32-2031 https://kinosaki-mikiya.jp/

 立派な玄関をくぐると、10代目の当主の片岡大介さんが出迎えてくれた。

 とはいえ、今日の話のメインは、志賀直哉ではない。城崎のNPO法人「本と温泉」が生み出した斬新な本について伺うことになっていた。

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片岡大介さんと川内さん

 片岡さんによれば、城崎温泉はもともとカニ料理で人気の観光地だった。カニのシーズンの売り上げはかなりのもので、カニさえあれば一年中安泰! という時代があった。しかし、時は流れ、平成になると、人々はカニ以外のなにかを求めて、西へ、東へ。

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城崎温泉といえばカニ! 漁期が毎年11月から3月に限られ、この時季だけ地元で水揚げされた松葉ガニ(津居山ついやまガニ、柴山ガニなど)が味わえる 

「若手の旅館経営者が集まると、もうカニだけじゃあかん、僕らはカニばなれせな、という話をしていました」

 そんなある日、「そうや、来年は志賀直哉が来て100周年や」という話になった。

「全国に何千と温泉地があるなかで、誰もが知っているような小説のタイトルになっている温泉地なんて他にないぞ!」

 そう気がつくと、文学をテーマに新しいことにトライしようという話が出た。そこからが驚きの展開なのだが、「新しい温泉地文学を送り出そうじゃないか」と出版レーベルを発足! 翌年には、選書家のはば允孝よしたかさんなどのサポートを得て、『注釈・城の崎にて』『城崎裁判』(万城目学)の2冊を、世に送り出した。2013年から2014年にかけてのことである。

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三木屋のラウンジに設置されたライブラリー。「本と温泉」にも関わった幅さんによる選書が楽しめる

 あれから7年が経ち、『城崎へかえる』(湊かなえ)、『城崎ユノマトペ』(tupera tupera)も出版ラインナップに加わった。

 その豪華な執筆陣もさることながら、意表をついたデザインも目をひく。なにしろ『城崎裁判』はタオルを縫い合わせたカバーにくるまれている。中の冊子部分も耐水性の高い紙で、温泉に浸かりながら読むこともできるとか。『城崎へかえる』は本物のカニに見まがう箱に入れられているし、『城崎ユノマトペ』は下駄がモチーフの表紙である。

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[今月の本]
NPO法人 本と温泉刊「本と温泉」シリーズ
2013年、城崎温泉旅館経営研究会が志賀直哉来湯100周年を機に立ち上げた出版レーベル「本と温泉」。「今後100年読まれ続ける新しい本づくり」をコンセプトに、現在までに志賀直哉『城の崎にて』(『注釈・城の崎にて』とのセット)、万城目学『城崎裁判』、tupera tupera『城崎ユノマトぺ』、湊かなえ『城崎へかえる』の4作品を刊行。城崎温泉でのみ購入できる。

 うわあ、遊び心満載ですね! まさしく「本と温泉」である。

 ちなみに、これらの本は「地産地読」をモットーにしていて、城崎でしか買うことができない。この出版不況が叫ばれる時代に勇気ある決断だが、作家さんたちは難色を示さなかったのだろうか。

「万城目さんが、そっちの方がいいです。ネット通販でなんでもすぐに届けてくれる時代にここでしか買えないなんて、そんないけずなことないですよ! とおっしゃってくれて」

 ほほー! ミクロな商圏にもかかわらず、着実に版を重ね、『城崎裁判』と『城崎へかえる』はすでに2万部を突破した。

名作が生まれる所

 夕方、街では浴衣を着た人々が、川沿いの道をそぞろ歩いていた。下駄のカラン、コロンという音が鳴り響く。夕暮れの空にたなびく柳の葉、柔らかく光る街灯が、幻想的な雰囲気を醸し出す。

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風情を添える浴衣姿の温泉客 

 つられて私も外湯めぐりに行こうかなと思いつつ、うっかり部屋で『城崎裁判』を読み始めてしまった。

 それは、『城の崎にて』の続編のようにもとれる小説だった。しかし、読みすすめると、笑いと驚きに満ちたオリジナルストーリーとなり、城崎の静かな街並みと奇想天外な小説世界が絶妙にドッキングしている。ああ、ここで物語を紹介したいところだが、地産地読なんで、ウググ、と唇をかみしめる。気になるかたは、ぜひ城崎までお出かけください。

 翌朝、ようやく外湯めぐりに出かける。城崎には、7つの外湯がある。眺望や建物などそれぞれ個性的でどこに行くべきか迷うが、私は洞窟風呂がある「一の湯」へ向かった。ここは『城崎裁判』の重要な舞台なのである。

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趣の異なる7つの外湯のうちの1つ「一の湯」。江戸中期から続く名湯で、江戸時代の医師・香川修徳が「城崎新湯(一の湯)は天下一」と述べたという

 洞窟の中に差し込む朝の光と立ち上る湯気のせいだろうか、昨日読んだばかりの小説の一場面がビビッドに甦り、あたかも自分が小説の中にいるかのような錯覚に陥った。

 午後、城崎文芸館に立ち寄ると、“小説の神様”の志賀直哉をはじめ、ゆかりの文学者たちの写真があった。ああ、ここは本当に名作が生まれる街なのだ。

 文芸館の一角では、『城の崎にて』の一節が英文で壁に印刷されていた。

生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。
*下記写真の英訳の原文

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城崎文芸館のインスタレーション(手前)。奥の壁面には『城の崎にて』の一文が英訳、引用されている ☎0796-32-2575 http://kinobun.jp/

 差はない? そうかなあ。私はまだその境地には至っておりません……、と小説の神様に語りかけた。

 そういえば志賀直哉が『城の崎にて』を書き始めた当初、そのタイトルは『いのち』だったが、書き終える頃に『城の崎にて』に変更されたという逸話がある。いや、変更して正解だと思いますよ! こっちの方がいいです、と私は恐れ多くも小説の神様に意見を述べた。もちろん写真の中の神様はなにも答えない。

 カバンの中には、お土産にと買い込んだ「本と温泉」レーベルの本が入っていた。これを誰にあげようか。そう考えるだけで心はホカホカだった。

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温泉街の中心部を流れる大谿川おおたにがわ。柳並木と夕焼けが水面に映える

文=川内有緒 写真=佐藤佳穂

川内有緒(かわうち ありお)
ノンフィクション作家。米国企業、パリの国連機関などに勤務後、フリーの作家になる。第33回新田次郎文学賞『バウルを探して』(幻冬舎)、第16回開高健ノンフィクション賞『空をゆく巨人』(集英社)、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)など著書多数。

出典:ひととき2021年12月号


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