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けふばかり人も年よれ初時雨|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

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けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉

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老いなければわからないもの

 元禄五(1692)年秋、芭蕉は江戸で、多才な俳人と会う。森川許六きょりくである。近江彦根藩士で、狩野派の絵画、漢詩と親しみ、貞門・談林の俳諧を学んでいた。明暦二(1656)年生まれ、芭蕉より十二年、年下である。仕事で江戸に出てきた、三十六歳の許六は、はるかに憧れていた芭蕉に入門がかなったのである。同時に芭蕉は、許六を絵画の師として仰ぐこととなる。お互いに学び合う関係となるのだ。

 李由りゆう・許六編の俳諧撰集『韻塞いんふたぎ』に所載の掲出句には、「元禄壬申(五年)冬十月三日許六亭興行」と前書がある。許六亭を訪れた芭蕉の挨拶詠である。ちょうど初時雨が降りかかっていた。歌人、連歌師、俳諧師にとって、「時雨」はただの雨ではない。さっと降りすぐにやむところに無常を感じるものとして、たいせつに受け止めてきた。

 ましてや初めての「時雨」である。そこには初めてという華やぎと、冬という季節の到来を確認する侘しさも加わる。微妙な明暗を感じさせる雨なのである。この雨の味わいを若者が解せるとは思えない。

 句意は「君の若さはすばらしいものだが、今日の初しぐればかりは味わいつくせないだろう。年老いたつもりで、味わってみたまえ」。

 老いてみなければわからないものがある、ということを、芭蕉が自信を持って示しているところに、この句のおもしろみがある。現代、ぼくらの時代は老いるということをマイナスに考えがち。儒教的な長幼の序から自由になったことはいいとしても、老いを若さの退化とばかり、考えてしまうというのは、あまりに貧しいではないか。老いることが楽しみになる一句である。

 掲出句を発句として、歌仙が巻かれている。脇句は許六が付けた。「野は仕付しつけたる麦のあら土」。「仕付たる」は種を蒔いたということ。「あら土」はこなれていない土ということ。句意は「野に麦の種を蒔いたのだが、まだ、土はこなれていない。でも、初時雨に濡れている、すこしずつ馴染んでいくだろう」。

 芭蕉の挨拶に対する返答としては、「入門したばかりで、先生のおっしゃることを完全には理解できてはいません。でも、幸いなことに、すこしずつわかってきました」というような意味になろうか。

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中屋敷跡から上屋敷跡へ

 さて、許六亭はどこにあったか、二つの説がある。

 俳文注釈書『風俗文選犬註解ふうぞくもんぜんいぬちゅうかい』(嘉永元年・1848年刊)によれば、江戸こうじ喰違くいちがい御門内井伊家中屋敷にあったと言う。

 この地は現在、ホテルニューオータニとなっている。東京メトロ銀座線・丸ノ内線赤坂見附駅下車。ホテルの庭には、築山がしつらえてあり、大きな滝が落ちていた。手入れされた木々の緑が濃い。ところどころに石灯籠が立っている。大きなものには十二支の動物が彫り付けてあったり、背の低いものには笠の部分に桃の実が彫り付けてあったりする。

 この庭はもともと加藤清正邸であり、井伊家中屋敷となり、明治以降、伏見宮邸となり、現在に至っている。灯籠はいつの時代のものか、わからないが、味がある。この庭の歴史を感じさせるものになっている。それにしても、江戸時代から整えられてきた庭のすぐ脇に高層のホテルが聳えているのには、めまいを覚える。ホテルの中に入ったら、迷ってしまった。

 阿部喜三男他著『芭蕉と旅 上』では、許六亭は井伊家中屋敷ではなく、上屋敷にあったとする。三宅坂の「社会党本部の付近にあった」と書かれている。現在の「社会文化会館」(平成二十五〈2013〉年に解体)である。

 弁慶橋を渡り、国道246号を皇居方面に向かうことにする。右側には国会図書館が、左側には最高裁判所が見える。三宅坂は、皇居内濠に面して半蔵門から警視庁あたりまで続く緩やかな坂道であった。

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弁慶橋

 彦根藩上屋敷跡には、当時の面影はまったく残されていない。明治期以後、参謀本部、陸軍省となり、現在では憲政記念館が建てられている。館内には大勢の高校生があふれていた。修学旅行だろう。

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憲政記念館

 許六が滞在していたのは、上屋敷か、中屋敷か、ぼくには判断できない。とにかく、今日歩いたどちらかの場所で、芭蕉と許六とは会い、掲出句が作られたのだ。

 三宅坂交差点近くで、首都高速道路は地下へと入る。その上の空地は一面の秋草であった。やぶからしの花の上を雀蜂が歩いている。ときどき花を舐めているようにも見える。あおすじあげはも飛び交っている。濠の向こうの皇居の森から飛んでくるのかもしれない。にわかに風が吹きだして、雨も落ちはじめた。初時雨にはまだ早すぎるが、一日、初時雨の句を唱えていたぼくとしては、ちょっとうれしい。

 やぶからし踏みつけに蜂あゆむなり 實
 一滴はわがくちびるへ初時雨

※この記事は2006年に取材したものです

小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。

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※本書に写真は収録されておりません


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