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光の祭典、ユダヤ教のハヌーカーをともに祝う意味|すべての祝祭を寿ぐイスタンブルの年末年始(1)|イスタンブル便り

この連載イスタンブル便りでは、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、毎年この時期に行われるユダヤ教の祭礼・ハヌーカーについて。

 年の瀬である。

 この時期、イスタンブルの街は華やかなイルミネーションで彩られる。

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「ユルバシュ、ユルバシューウ!」

 独特の哀愁を帯びた響きは、「ユルバシュ(新年)の花」(日本名はナギイカダ)を売るロマたちの呼び声だ。

 イスタンブルに、クリスマスはあるのか。

 クリスマスツリーならぬ、「ユルバシュの木」が飾られ、「ユルバシュの贈り物」が交わされ、「ユルバシュの夜」は、七面鳥がオーヴンで焼かれ、パーティーや、恋人同士や、家族で祝う人、それぞれである。

 子供達は「ノエルババ(クリスマスのおじさん)」の存在を知ってはいるが、彼らがプレゼントをもらうのは元旦で、自分の家族からである。(ついでだが、サンタクロースのモデル、聖ニコラウスは、トルコ出身といわれている)

 つまり、日本で知られるクリスマスのあらゆるアイコンが、トルコでは、大晦日と元旦の風物詩なのだ。ちなみに、休暇は1月1日のみ、ほかは通常営業。

 ところが、はたと気づいた。イスタンブルの年末年始をフルに楽しむには、1ヶ月半必要だ。

 * * *

 11月の最後の日曜日。

 オランダのマーストリヒトで講義をし、ついでに娘の顔を見ての帰りだった。真夜中近くに飛行機を降り、 空港の通路を入国審査へ向かう途中、鮮やかな画像がぱっと目に飛び込んできた。

 暗闇のなかに、火の灯った蠟燭が並んでいる。独特のカーヴの燭台に立てられた蠟燭の数は、八つ。

 HAPPY HANNUKAH

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 イスタンブル空港からの、認知拡大の広告だった。

 へええ、イスタンブル空港が、ハヌーカーのお祝いを。目に留まったのは、そのせいだった。

 ハヌーカー、というお祭りをご存知だろうか。

 ユダヤ教の祭礼で、光の祭典とも呼ばれる。紀元前2世紀の、マカバイ戦争後のエルサレム神殿奪回を記念したものだ。 暗闇に灯る光のイメージと、毎年日付が変わるがちょうどクリスマスや年末年始と近いので、なんとなく一緒に記憶していた。由来としては、じつは年末年始とは何の関係もない。 

 が、この時期の風物詩のひとつである。毎晩ひとつずつ蠟燭の光の数を増やして灯してゆき、すべての光が揃う8日目を、盛大に祝う。

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八つ揃ったハヌーカーの光 今年の点灯式より

 だがわたし自身、実際の祭礼は見たことがない。イスタンブルに住んで25年以上にもなるのに。

 見てみたいなあ。

 そう思ったのがはじまりだった。その日はハヌーカーの初日だった。

 人口1600万といわれるメガ都市イスタンブル。

 ここは、さまざまな信仰が、深い歴史的因縁でかかわりあう、磁場のような場所でもある。

 トルコといえば「イスラーム」のイメージを持つ方が多いだろう。

 たしかに現在、人口の約9割がイスラーム教徒だ。だがオスマン帝国時代、19世紀半ばのイスタンブルは、人口の半分以上はムスリムでないひとびとだった。世界最大のギリシャ正教徒、アルメニア聖教徒、ユダヤ教徒の人口を、擁していたのだ。ほかにも、ローマ、アルメニア、シリア、ギリシャのカトリック、プロテスタント各宗派、ブルガリア、シリア、ロシアの各正教。

 いまわたしたちの言う「年末年始」とは、西暦、キリスト教の暦による。正確には、 ローマ・カトリックのグレゴリオ暦だ。現在世界の多くの国が採用しているが、宗教によっては、別の暦があり、まったく別の文脈がある。日本でも、明治以降、たかだか150年足らず前からの話である。

 同時期のオスマン帝国では、異なる暦が同時に並立していた。

 すくなくとも、イスラーム教のヒジュラ暦、西暦、キリスト教でも正教徒が使うルーミー暦、そしてユダヤ暦。新聞などには、三つ、あるいは四つの暦による年月日が併記された。今でも街を歩けば、複数の竣工年が刻まれた建物を見かける。

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入口上に、三つの暦で竣工年が書かれたシモタス・ビル。左から、西暦1923年、ユダヤ暦5683年、アラビア文字で「١٣٣٩」と書かれているのは、ヒジュラ暦1339年

 異なる基準の共存、それが日常の細部まで当然のことだった。「他者への敬意」がことさらに叫ばれ、主張される現代よりも、ずっと自然体で実現されていたのでは、と、わたしなどには思える。

 今はもうない、しかしかつて、確実にあった世界。

 イスタンブルに暮らしていると、思いがけない時に不意打ちにあう。その世界の香りの、最後のひと刷毛を、嗅いだような気がする瞬間がある。

 モスクのミナレットの形をしたハヌッキーヤを見た時のことだった。ハヌッキーヤとは、ハヌーカーの明かりを灯す、燭台のことだ。

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モスクのミナレットの形をしたハヌッキーヤ。てっぺんの月と星は、イスラームのシンボルである。トルコユダヤ人博物館蔵

 素朴なブリキ細工である。鉛筆のように尖った細長い円筒形は、トルコ人ならおそらく誰もがわかる。オスマン建築の典型的なモスクのミナレットの形だ。そのまわりを、八つのオイルランプが囲んでいる。

 ユダヤ教のお祭りに、イスラーム教のモスクの形。

 並立した暦のようだ。

 思い至ったとき、すうっ、と、 見えたような気がした。そのランプに油を満たし、光を灯したひとびとの笑顔が。

 * * *

「ねえ、ハヌーカーのお祭りが見てみたいんだけど、どこで見れるかな?」

 友人のモニカに電話してみた。

 イスタンブルに長く住む写真家で、ニューヨーク出身のユダヤ人だ。出自からすればトルコのユダヤ人とは関係ないのだが。

「シナゴーグは普通信徒じゃないと入れないけど……、そういえば、案内来てたわ。バラットで公開の点灯式があるわよ」。

 そして、シナゴーグ訪問の許可申請に、いくつかの電話番号も送ってくれた。

 ハヌーカーの点灯式は、世界の主要都市の一等地で、盛大に祝われるものらしい。今年のニュースによれば、ニューヨークでは六番街、パリではエッフェル塔のあるシャン・ド・マルス、ロンドンではトラファルガー広場だ。

 イスタンブルのハヌーカーの点灯式は、金角湾沿いのバラット地区で行われた。金角湾をはさむ対岸、バラットとハスキョイは、かつての ユダヤ人居住区だ。思いがけずリラックスした雰囲気だった。

 トルコのユダヤ人コミュニティーは2000年代の初め、パレスチナ問題から波及したテロに苦しんだ。その後、点灯式が公共の場所で行われるようになったのは、やっとここ数年のことだという。集まったひとびとは、ざっと2、300人いただろう。

 家々の明かりが灯り、金角湾の水面にきらきらと映りはじめた頃。ライトアップされた一艘の舟が、岸に近づいてきた。

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古式ゆかしい手漕ぎ舟、カイックをかたどった船。向こう岸はもう一つの旧ユダヤ人居住地区、ハスキョイ。

 降り立ったのはユダヤ教のトルコのチーフラビ(筆頭聖職者)だった。信徒代表者、トルコ政府、地方自治体関係者、国会議員などの来賓に混じって、スペイン総領事もいた。

 イスタンブルのユダヤ教徒は、大半がセファルディと呼ばれるスペインからの移住者である。これは、世界のユダヤ人口からすると少数派である。世界的には、ドイツ・オーストリア系のアシュケナージが大多数だからだ。

 話は15世紀にさかのぼる。1492年、イベリア半島でカトリックの勢力がイスラームを滅ぼした時、それまでイスラームと共存していたユダヤ人たちは選択を迫られた。カトリックに改宗するか、それとも国を出るか。

 その時、信仰を保障し、船を差し向けたのは、オスマン帝国スルタン、バヤズィトII世(在位1447-1512年)だった。以来、セファルディたちはオスマン帝国に定住した。

 今年はそれからちょうど530年目だという。

 祝祭は、とてもシンプルなものだった。

 セファルディたちの言葉、ラディーノ語の音楽の後、最初にチーフラビが祈りの言葉を唱え、ひとつずつ順にオイルランプに火が灯された。来賓、外交官、宗教関係者、コミュニティーの老若男女が、かわるがわるステージに上がり、八つの灯をともした。

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点灯式の様子。右側の白い衣装の人物が、トルコのユダヤ教筆頭聖職者、チーフラビ。

 ハヌーカーのお祭り、おめでとうございます。

 あなたたちの祝祭は、わたしたちの祝祭でもあります。あなたが許してくれるのならば。

 祝祭を、ともに祝うということ。それは、イスタンブルというこの街で生きるお互いの存在を、認めあうことである。信仰や、政治的立場はちがっても、隣人同士、ほんのひととき、ほほえみを交わすことはできる。祝祭は、そのためのきっかけだ。対立よりも共存を。排除よりも受容を。

 イスタンブルのひとびとは、 幾千年と住みなされた暮らしのなかで、それを知っている。並立する暦とおなじように。これから嵐がやってきたとしても、灯される明かりを、絶やしてはならない。

 ハヌーカーが終わり、クリスマスが終わり、西暦の新年が明けると、今度は正教徒たちのエピファニー(神現祭)、聖教徒たちのクリスマス(聖誕祭)がやってくる。イスタンブルの年末年始は1ヶ月半、なのである。

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文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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