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青春の思い出の地、信濃大町で味わう30年越しのソースかつ丼|猪熊隆之(山岳気象予報士)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただく連載あの街、この街。第43回は、山岳気象予報士の猪熊隆之さんです。青春の地を再訪した思い出を綴っていただきました。

大学山岳部の出身者は、「大学4年間でもっとも印象に残った山行は?」と聞かれると決まって「大学1年の夏合宿」と答えるだろう。そういう自分も富士山での滑落事故を除けば、そう答えるに違いない。

初めての3週間という長期にわたる山行。当然、その間は風呂も入れず、髭も剃れず、食事は全部自炊だ。特に、1年生は体力がないし、経験も技術も少ない。食事作りやテントを張ったり、撤収するときのスピードも遅い。上級生に怒られてばかりだ。その中でも自分は断トツの落ちこぼれだった。同期に比べても体力はないし、ひとつひとつの動作が遅い。不器用なのだ。体も弱い。夏合宿の初日、涸沢へ向かう登山道で腹を下してしまい、皆を30分も待たせてしまった。また、疲れ切っているので食事も喉を通らない。「食べないと、明日の訓練は参加させないぞ」と言われて無理に食べようとすると、戻してしまう。

そんな1日が終わって寝る前になると、「明日こそは退部しよう。脱走しよう」と強く思うのだが、そんなとき、高校時代の何からも逃げていた、負け犬だった自分を思い出す。「ここで辞めたら、また負け犬だぞ。同じことを繰り返してそれでもいいのか」その恐怖に比べたら、まだこの辛さはマシだ。「明日一日だけ頑張ろう。辞めるのはいつでもできる」と気持ちを切り替えて一日一日を乗り切っていった。

3週間経ち、夏山合宿の最終日。なんだか自分が成長した気がする。そして、心地よい充実感が体を包んだ。身体は疲れ切っているが、「下山したら風呂に入れる。そうだ、何を食べよう。まずは肉を食いたい。」と下山後のことに想いを馳せると体が軽くなる。そうして降りた街が信濃大町(長野県大町市)だった。

信濃大町は高校時代に初めて通った。その頃、青春18きっぷを使って旅をするのが好きだった。日頃の嫌なこと、弱い自分から逃げる旅でもあった。当時、私は神奈川県の二宮町に住んでいて、鈍行の夜行列車、上諏訪行きに乗り(現在はない)、松本駅で大糸線に乗り継ぐ。信濃大町に近づくと、左側に真っ白な北アルプスの峰々が迫る。その圧倒的な迫力に衝撃を受けた。当時は、鹿島槍ヶ岳や爺ヶ岳じいがたけといった山の名前も知らなかったが、その美しさに心を奪われ、いつか登ってみたいと思った。

大学時代の怪我が元で、慢性骨髄炎になり、入退院を繰り返すようになると、山から足は遠のき、信濃大町に行くこともなくなった。5年の闘病生活を経て、世界的な名医と巡り合い、奇跡的に寛解すると、医師に止められているのにもかかわらず、マラソンを始めた。闘病中、山登りよりもやりたかったこと、それは走ることだった。

久しぶりに大町を訪れたのは2012年の秋。大町アルプスマラソンに出場するためだった。開催日は10月の第3日曜日。木々が色づき始め、収穫を終えた田園地帯を走る。アルプスの峰々を見上げながら再び走れる喜びをかみしめた。

信濃大町から見たアルプスの風景

大会の後、くず温泉の「温宿かじか」という宿のお風呂に入る。ここは美しい森の中にある露店風呂で、お湯に浸かっていると、森の中にお風呂があるような錯覚を覚える。疲れた筋肉が解きほぐされていき、自然と一体化したような感覚で心の中の澱みまでもが取れていくようだ。温泉の後は、空腹を満たすために大町駅前の商店街へ。ここを訪れるのは学生時代以来、約30年ぶりだ。商店街は日曜日ということもあってか、シャッターが閉まった店が多い。郊外の大型店に客を奪われているのだろう。

葛温泉付近の高瀬渓谷

北へ向かって歩いていると右手に懐かしい店があった。そう、あの大学1年の夏、下山後に立ち寄った「昭和軒」というお店だ。引き込まれるように、店の中に入る。レトロな雰囲気が漂い、まさに「昭和」そのもの。名物のソースかつ丼を注文する。あのとき食べた一品だ。秘伝のタレは濃厚で甘辛く、ご飯が進む。ボリュームも満天で、闘病中に胃袋を小さくしたこともあり、満腹で苦しくなる。

30年前のあのときは、3週間の山行を終えて飢えており、確かゆっくり味わうこともせず、ご飯をかき込んでお代わりをした記憶がうっすらと蘇ってきた。その後、同期の男だけ5人で喫茶店に行き、フルーツパフェを食べた。当時は、スイーツ男子という言葉もなく、男がパフェを食べるのは珍しく、周囲を気にしながら恥ずかしい気持ちで、それでも山を登り終えた充実感と、山で食べれなかった甘いものにようやくありつけた満足感で、下山後の幸福感に浸っていたのだろう。

そんな30年前の記憶とマラソン後の走り終えた爽快感、充実感とが重なり合った2012年、信濃大町の秋であった。

文・写真=猪熊隆之

猪熊隆之(いのくま・たかゆき)
1970年生まれ。全国18山域59山の山頂の天気予報 https://i.yamatenki.co.jp/ を運営する国内唯一の山岳気象専門会社ヤマテンの代表取締役。中央大学山岳部監督。国立登山研修所専門調査委員及び講師。茅野縄文ふるさと大使。カシオ「プロトレック」開発アドバイザー。チョムカンリ(チベット)、エベレスト西稜、剣岳北方稜線冬季全山縦走などの登攀歴がある。2024年エベレスト登頂、2023年マナスル登頂など最近は天気を予想しながら登頂を果たしている。著書に『山の天気にだまされるな』(山と渓谷社)、『山岳気象予報士で恩返し』(三五館)、『山岳気象大全』(山と溪谷社)など。

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