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逗子、写真家中平卓馬への路(中川道夫インタビュー)|新MiUra風土記(番外編)

現在、東京国立近代美術館では『中平卓馬 火―氾濫』(2月6日[火]~4月7日[日])が開催中です。異端の写真家・中平卓馬さん(1938-2015)が亡くなってから初の大規模な回顧展。未公開作品のほか、同館で1974 年以来50年ぶりの展示となる「氾濫」、作品掲載誌なども多数展示され、連日多くの観覧者が訪れています。
本連載筆者の写真家・中川道夫さんは、1970年代前半に中平卓馬さん(以下、中平さん)のアシスタントを務めていました。今回は中平さんのアシスタント時代を中心に、中川さんに同展を観覧しての印象をお聞きしました。

編集部(以下、――):2023年夏に「挑発関係=中平卓馬×森山大道」展が開催された際、中川さんが森山大道さんにお話を伺いました。森山さんから中平卓馬さんについての貴重なお話を伺うことができましたが、2003年の「中平卓馬 原点復帰―横浜」展(横浜美術館)から20年、今回の展覧会を見ての率直な感想はいかがですか。

中川(以下、省略):展覧会タイトルの「火ー氾濫」を見たとき、一瞬「ノン叛乱はんらん」と読み違えそうになりました。美術館があるのはかつて帝都の近衛師団司令部ゆかりの地で、竹橋事件(1878年)や二・二六事件(1936年)、宮城きゅうじょう事件(1945年)といった、日本近代史の叛乱の舞台だったからです。写真や言説で権力や管理社会を批判しつづけた彼にはふさわしいかもしれない、と思いました。

――会場は活動を編年体でたどる、5章に分かれて構成されています。今回、オリジナルプリント以外に、中平さんの作品が掲載されたグラフ雑誌や商業誌などの紙媒体も多数展示されています。

第1章の『来たるべき言葉のために』は、中平さんの初写真集のタイトルでもありますが、寺山修司寄稿の「アサヒグラフ」などの印刷物の展示ですね。作品の名作プリントを見せるだけでなく、写真家・中平卓馬は「写真」というものを、「撮影→プリント→印刷→展示」という一連の流れを意識した行為であったことを実感させるものです。

展示風景より、『来たるべき言葉のために』よりスライドショー形式による上映 撮影=木奥惠三

一方、戦後写真史で伝説化した同人誌「Provoke(プロヴォーク)」(*1)のアレ、ブレ、ボケの作品はプロジェクションコーナーなどで見ることができます。破壊と虚無感たっぷりの独特の写真について、鑑賞者みずから「来たるべき言葉」(*2)を紡がねばならない、ということでしょうか。

(*1)「Provoke」は、中平卓馬、写真家の高梨豊、美術評論家の多木浩二、詩人の岡田隆彦らによって1968年11月に創刊された写真同人誌。2号から森山大道が参加。わずか3号で廃刊となったが、日本の写真史上、最も著名な写真誌の一つ。
(*2)1970年に写真集『来たるべき言葉のために』(風土社)を刊行した。

近年の写真家の回顧展では、プリントだけでなくマガジンワークスなど商業誌やレコードジャケットなども写真家の仕事として見直されています。中平さんも、ジャズシンガーの安田南やロックバンド「コスモスファクトリー」のアルバムジャケットなども手掛けていました。

「コスモスファクトリー」1st アルバム「トランシルヴァニアの古城」(1973年 中川道夫所蔵品を撮影)

日本で写真がアートとして認知されて、オリジナルプリントが重要視される以前は、中平さんに限らず、森山さんほか多くの写真家は、印刷媒体を“主戦場”としていました。とくに中平さんは政治評論誌の編集者から写真家に転じたので、既存の写真美学に毒されることもなかったですし、『おまえは写真で何を焼く?』とラジカルに問うていた寺山修司らとの出会いも大きいものでした。

――中川さんは、1972年から75年まで中平さんのアシスタントを務めました。写真家・中平卓馬の前期を知る一人です。中平さんとの出会いは本連載の記事でも書かれていますが、その頃中川さんはもう作品を意識した写真を撮り始めていたのですか?

いえ、まだです。最初に会ったのは、1969年4月28日から29日未明にかけて、当時高校2年生だった僕は東京で行われた「沖縄デー」に参加しました。その帰途、逗子駅から自宅への道すがら、僕の前をずっと同じ方角に向かう人がいて、それが中平さんでした。僕自身はカメラも持っていませんでした。

中平さんはパリの街頭のゴダールみたいに16ミリムービー・カメラを提げていたので(*3)、「反体制の映画を撮っているのですか」と話しかけたら、「いや、いつもは写真で風景だ」と言うんです。そして「『Provoke』(プロヴォ―ク)という雑誌をやっている」と。

「Provoke」全3冊(1968~70年 初版 中川道夫蔵書を撮影)。3号それぞれページ数、判型が異なっている。

(*3)フランス映画の“新しい波”(ヌーヴェル・ヴァーグ)を代表する監督の一人、ジャン=リュック・ゴダール(1930-2022)。『パリところどころ』(1964年)では、自身を含む6人の映画監督が各々パリの街を撮影した。

その後も逗子の街で何度か見かけたことはありましたが話すこともなく、その翌年(1970年)、雑誌「季刊写真映像」の記事のなかに中平さんが写っていて、『あ、この人! 写真家なんだ』とはじめて認識しました。

そこに掲載されていた、「風景9」という作品を見て衝撃を受けました。それまで見てきた写真とは全く違う、荒涼、殺伐とした都会の風景写真だったからです。当時世間で盛んだったベトナム戦争や反戦運動関連の写真とも全然違う中平さんの風景写真を見て、ズドンと身体に入ってくるような感覚を覚えました。こんな写真の世界があるのかと。

 「風景9」(『季刊写真映像』6号 1970 年10月 写真評論社 中川道夫蔵書を撮影)
展示風景より、中平卓馬「サーキュレーション―日付、場所、行為」(40点 1971年 東京国立近代美術館蔵)を見る中川道夫さん。
中平卓馬《「サーキュレーション―日付、場所、行為」より》1971年、ゼラチン・シルバー・プリント、32.0×48.0cm 東京国立近代美術館 ©Gen Nakahira
展示風景より(撮影=中川道夫)、《サーキュレーション―日付、場所、行為》【シカゴ美術館での再現展示(2017年)の際のプリント】1971年(2016年にプリント)中平元氏蔵 

――その後、中川さんは1971年から1974年まで東京綜合写真専門学校に在籍します。その間、ご自身の作品を中平さんに見せたりしたのでしょうか。

写真学校に入学して、都市風景を撮り始め、自分の作品を批評してもらおうと中平さんの家を訪ねました。僕の作品については、「ワンパターンだ。パターン化しちゃいけないよ」と言われたことを覚えています。中平さんが『なぜ、植物図鑑か』を出した頃は、自分も植物や鉱物の写真を撮ってみたり、夜、暗闇に向かってフラッシュを使って撮影したり、試行錯誤しました。

『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(晶文社 1973年 初版 中川道夫蔵書を撮影)。2007年、ちくま学芸文庫より復刊。

そして頻繁に互いの家を行き来し、撮影に同行するようになりました。僕の実家の押入れを改造した暗室が、中平さんの仕事場にもなり、現像を急ぐ中平さんの代わりに僕がフィルム現像やプリントすることもありました。また中平さんが時々僕のカメラを使うこともありました。中平さんは、ニコンFや、キヤノンから提供されたキヤノンF1を主に使っていて、晩年は100ミリレンズを愛用していました。僕が持っていたライカM4を貸すこともありましたが、フィルムの装填の方法が全く違うので戸惑っていましたね。

――中平さんが1973年に自身の作品のネガフィルムやプリントを逗子の海岸で焼却したことは良く知られています。こちらの記事でも書かれたように中川さんはその現場に立ち合いました。写真家にとってネガフィルムやプリントはいわば分身のようなものではないかと思うのですが、中川さんはどう感じていたのでしょう。

そうですね。中平卓馬伝説になっていますが、異和感はなかったです。『なぜ、植物図鑑か』で過去の自作を否定していたこともあり、ストイックな中平さんらしいと。

――今回の展覧会のタイトルにもなっている第3章の「氾濫」についてお聞きします。これは今からちょうど50年前の1974年開催の「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に出展された48点のカラー組写真で、当時同様に展示されています。どのように配置するかの設計図のような資料もあり、とても興味深いものです。この一連の写真の制作には関わっていたのでしょうか。

中平卓馬《氾濫》1974年、発色現像方式印画、169.5×597.5cm(48点組、各42.0×29.0cm) 東京国立近代美術館 撮影=木奥惠三
展示風景より(撮影=中川道夫)、中平卓馬《氾濫》より部分 

これは撮り下ろしではなく、すでに雑誌に発表していた写真に追加するかたちで、東京湾岸を、川崎から横浜を撮影して回りました。逗子で近所に住んでいた僕と、中平さんの横浜の実家近くに住んでいた田代竜一さん(写真家)が、交代で僕らの自家用車に乗せて同行しました。中平さんは運転しないので、いつも「オレは助手席のプロ、助手プロ(女子プロ?)だ」と冗談をとばしていました。彼は写真やその思想とは正反対にひょうきんな人でした。製鉄工場の撮影では田代さんの500ミリの超望遠レンズを借りて撮影していました。慣れないせいかほとんど写ってなかったですが。

中平卓馬《「氾濫」より》1971年、発色現像方式印画、42.0×29.0cm 東京国立近代美術館 ©Gen Nakahira

――組写真は他にもありますが、この作品は今回の展示のなかでも別格に扱われている印象です。今回、1974年版が、あたかも2018年のリプリント版に投影されるように、壁を隔てて比較展示されていますが、これについてはいかがですか。

50年という区切りなのか、両者のあいだに存在する“時間”を提示したのか、その意図はわかりませんが、構成する写真群の、“モノの氾濫と死滅する都市風景”には、いまもフィルム時代独特の味わいを感じます。当時、この廃棄物が“氾濫”する写真を見た大手広告代理店から、中平さんにテレビCMの撮影依頼がきたんです。多くの写真家がそうであるように、中平さんも “作品”を撮るだけに生きてかすみを食って生きていた訳じゃなく、商業的な仕事もこなすことで写真家としての”作品”を撮る日々を支えていたんです。

――中平さんは中川さんに、「自分の作品についてどう思うか」と尋ねることはありましたか。

中平卓馬さん(1974年、沖縄にて 撮影=中川道夫)※今回の展覧会には展示されていません。

それはなかったです。一方、政治的、社会的な様々なことについて、「お前はどう思う?」とかれることはしばしばありました。そこで人を見極めていたのかもしれません。時には中平さんを批判するような事を言っても聞いてくれました。

――1977年に倒れてから小康を得た後の、1978~1990年代の日記が第5章の「写真原点」に展示されています。年代により記述の筆致や内容が変化していきますが、撮影準備に思いをめぐらしたり、ご家族への温かい眼差しも感じられます。なかには書き損じたのか、ある文字を同じ大きさで別の紙に書き直して、きちっと切り貼りした箇所もあり、日々の「記録」として残そうという、強い意志の片鱗を見た気がしました。

ずっと「写真」と「言葉」を追求し続けた中平さんですが、中川さん自身も、これまで様々な媒体に「写真」と「言葉」を寄稿されています。中川さんにとってこの二つはどのような関係なのでしょうか。

僕自身は両者をそれぞれ”屹立”させたいと考えています。中平さんにも、写真と言葉の関係についてどう考えているか聞いたことがあります。中平さんは「数学(幾何)でいう、補助線の関係だ」と言っていました。様々な事象に補助線を引くようにして、言葉で探りを入れたのではないでしょうか。「写真にしか出来ないものがある」と考え、『なぜ、植物図鑑か』を発表し、試行迷走しながら現代美術、小説に向かい、晩年の即物的なカラー写真作品に至るまで、ずっとそのことを追求してきたと思います。

今回の回顧展のために集められた希少な実作品と膨大な掲載資料(*4)によって、中平卓馬の作品や仕事の“全体”を知ることができるかと思いますが、彼の人生を賭した顔や心が見えるまでには、時間がかかるかもしれません。没してなおも人を惹く、稀有な写真家です。今回の回顧展について、スペイン語が堪能だった中平さんに、「¿ Ha sido esto Bueno ?」(これで良かったでしょうか?)、と聞きたいですね。

(*4)例えば1976年にマルセイユで発表されて以来の公開展示となった「デカラージュ」(18点組)や77年の「街路あるいはテロルの痕跡」、雑誌『西医学』(西勝造が創始した健康法などを紹介する機関誌。1937年創刊)などこれまであまり知られていない逐次刊行物なども展示されている。

※本文中、中川道夫さんの言葉はインタビュー時のものです。

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から1975年まで同氏のアシスタントを務め、その後も親交を続け2015年に見送る。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

「中平卓馬 火ー氾濫」
東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー
(東京都千代田区北の丸公園3-1)
[期]2024年2月6日(火)~4月7日(日)
[時]10:00~17:00(金・土~20:00)※入館は閉館の30分前まで
[休]月(ただし3月25日は開館)
[料]一般1,500円/大学生1,000円
  ☎ 050-5541-8600(ハローダイヤル)
[詳細]https://www.momat.go.jp/exhibitions/556

〈展示構成〉
第1章 来たるべき言葉のために(1964~70年)
第2章 風景・都市・サーキュレーション(1970~75年)
第3章 植物図鑑・氾濫(1969~75年)
第4章 島々・街路(1973~78年)
第5章 写真原点(1978~2018)

中平卓馬(1938-2015)。東京都生れ。写真家。1963年東京外国語大学スペイン科(名称当時)卒業。翻訳業を経て『現代の眼』(現代評論社)勤務、1964年に写真家・東松照明の紹介で、森山大道と知り合う。同時期に写真・映画の評論活動を開始。1977年に病を得て後も個展の開催、写真集発刊、シンポジウム参加等精力的な活動を続けた。没後も、国内外で回顧展が開かれている。第2回写真の会賞(1990年)受賞。代表的な写真集に『来たるべき言葉のために』(風土社)、『ADIEU A X』(河出書房新社)ほか、評論集に『なぜ、植物図鑑か』(晶文社)、『決闘写真論』(篠山紀信と共著 朝日新聞社)など。

取材・構成=根岸あかね

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