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時代劇スター・市川雷蔵が“日本のハリウッド”と呼んだ映画人の町「太秦」|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京の魅力を伝える連載「偉人たちの見た京都」。第30回は昭和の日本映画界を勝新太郎と並んで支え、37歳で亡くなった時代劇スター・市川雷蔵です。映画人の町、京都・太秦について綴った随筆から、太秦がなぜ映画人の町になったのか、昭和の時代劇の栄枯盛衰に思いを馳せます。

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太秦うずまさを“東洋のハリウッド”という人がいる。
 
こう語るのは、名優の名をほしいままにしながら、惜しくも37歳の若さで夭折した俳優の八代目市川雷蔵(1931~1969)。養父が歌舞伎役者の三代目市川九團次くだんじだったことから、15歳で歌舞伎の初舞台を踏んだものの1954年に映画俳優に転身。大映所属の俳優として数多くの映画に出演し、1950年代から60年代にかけて、トップスターとして華々しく活躍した人物です。

直木賞作家・村松友視による市川雷蔵の評伝小説『雷蔵好み』(集英社文庫刊)

太秦とは京都の洛西、右京区にある地域。京都最古の寺である広隆寺のある地で有名ですが、何と言っても、テーマパークである東映太秦映画村や東映京都撮影所、松竹京都撮影所と2つの現役の映画スタジオを持つ町として知られているところです。

東映太秦映画村
東映太秦映画村の内部 aki / PIXTA(ピクスタ)

僕は自分の目でハリウッドを見たわけではないので、その当否は断じかねるが、映画人の町という意味で“日本のハリウッド”程度の表現は許されると思う。

ハリウッド(Hollywood)とは、言うまでもなく、アメリカのロサンゼルスにある映画産業の中心地。世界的に有名な町ですが、太秦もそれに負けていないと雷蔵は語るのです。

東映京都撮影所の入り口

歩いてもたかだか数分の三角点に三つの撮影所があって、数千の映画人が日夜を分かたず 現代のおとぎ話の製造に従事している。年間五百本になんなんとする日本映画の三分の一がここで生まれる。とりわけ時代劇と呼ばれるジャンルは、ごく少数の例外をのぞけば、すべてメイド・イン・ウズマサだ。

雷蔵が映画界に身を投じた1950年代、日本の映画産業は全盛期を迎えていました。1958年には、映画館入場者数は11億2745万人と過去最高*を数え、製作される作品数も504本に達する勢い。雷蔵も多い年には年間15本もの映画に出演していたほどです。

*日本映画産業統計(一般社団法人日本映画製作者連盟)による。ちなみに、2023年の入場者数は1億5554万人

雷蔵がこの文章を発表したのは1961年のこと。この時代、太秦には東映、松竹だけでなく大映京都撮影所もあって、まさに映画の町、映画人の町という言葉がふさわしい場所でした。
 
しかし、1953年に始まったテレビ放送の影響が次第に大きくなり、映画館の入場者数は急落していきます。それでも1961年にはまだ8億6340万人の入場者がありましたが、映画界に差し始めた落日の気配を雷蔵も感じていたのでしょう。こう記しています。
 
映画産業の斜陽化が喧伝される昨今ではあるが、太秦はやはり映画の町であり、その意味では映画王国ハリウッドに次ぐ映画人の天国といえよう。

ではそもそも、太秦とはどういうところだったのでしょうか。雷蔵は太秦の歴史について、次のように説明します。

太秦が、なぜ映画人の地になったのか

その昔、平安遷都前、応神天皇の御代に、百済国から帰化した豪族はた氏が、この地に居住した。秦氏とは融通王*の子孫で一二七県の民をひきいており、特に養蚕機織の業に長じていたという。

*朝鮮半島の百済から来朝した功満王の子とされる。別名は弓月君ゆづきのきみ

雄略天皇の御代に、秦酒公はたのさけのきみなる人物が多量の絹を献上して御感にあずかり、姓を禹都万佐(太秦)と賜った記録がある。これが現在の地名の起源とされている。

また西暦六二二年に、秦川勝はたのかわかつなる者が、京都最古の寺院たる広隆寺を建立した。これは聖徳太子の徳をしのんで建てられた日本でも最も歴史の古い本格的な寺院建築で、別名を太秦寺という。

このように、太秦の歴史的背景は秦氏一色にぬりこめられていた。

太秦が、大陸からの渡来氏族である秦氏と関係のあったことは、様々な資料に記録されています。また、秦氏は秦の始皇帝の末裔との伝承もあり、土木や養蚕、機織、酒造などの進んだ技術を日本にもたらした一族とされています。

一方、『日本書紀』には、推古天皇11年(603)に、秦河(川)勝が聖徳太子から与えられた仏像を本尊にして創建した寺が広隆寺であるとの記述があります。現在、霊宝殿に安置され、国宝に指定されている弥勒菩薩半跏思惟はんかしい像が、この時の仏像ではないかという説もあるようです。

広隆寺

そうした由緒ある地にちょっぴり芸術的な職人の集団活動屋が住みついたことは、不思議といえば不思議な因縁だ。思うに、活動屋特有の合理主義で、立地条件の割に安い地代にそそのかされた結果であろう。そこになんらかの歴史的根拠があったかどうか、僕は知らない。

無声映画からトーキーへ、そして現在のワイド映画時代へ。映画が時代の波に押され、活動屋が映画人と呼び改められても、太秦にしみこんだ活動屋魂は巌として存在する。

秦氏一族が太秦という地名を残し、この地にきざみこんだ歴史を、ぬりかえるものがあるとすれば、それは活動屋魂に他なるまい。

なぜ、渡来人である秦氏が開拓した土地に多くの撮影所が置かれ、映画人たちの活躍の舞台となったのか。それを明快に説明する資料はありません。ただ、大正時代の1925、26年頃に、阪東ばんどう妻三郎プロダクションが太秦にあった竹藪(現在の東映京都撮影所周辺と伝えられる)を切り開いて自社の撮影所を建設したのが始まりとされ、中小から大手の映画会社の撮影所が次第に集まってきたといいます。

昭和に入り、日本の映画産業は急速に拡大して黄金期を迎え、太秦もまた活況を呈していました。しかし、前述のように、テレビの興隆によって映画界には斜陽化の兆しが生まれ、その対策を講じる必要が出てきました。1961年に雷蔵がこの太秦で撮影していた映画は、業界の浮沈をかけた日本初の試みだったのです。

日本映画界の未来をかけた映画「釈迦」

今年の四月八日、日本最初の七〇ミリ映画「釈迦」がクランク・インした。これは単に、大映という一映画会社の社命をかけた大作の製作開始であるばかりでなく、日本映画界の未来を占う重大な意味を持っていた。だから僕は何のためらいも誇張もなくいえるのだが、これは太秦にとって一つの歴史的瞬間であった。

とりわけ国産第一号というレッテルをはられた大じかけな夢の製産にいそしむ人たちには、仕事の工程が難しいだけ誇りも大きいものがあろう。七〇ミリ映画といえば当面の映画界が未来をかける唯一の切り札なのだ。それがこの太秦で作られているのだ。日本のどこよりも早く太秦に未来がすでに始まったといっても過言ではあるまい。(略)

雷蔵の言うように、「釈迦」は通常の映画用35㎜フィルムではなく、より高品質の70㎜フィルムで撮影、上演された初の国産映画でした。テレビに対抗するため、大映はワイドスクリーン・長時間一本立ての大作主義を志向し、5億円とも7億円ともいわれる巨額の製作費が投入されました。

釈迦 修復版』 (主演=市川雷蔵、勝新太郎、本郷功次郎) Blu-ray 発売・販売元 KADOKAWA

後日談になりますが、「釈迦」はシナリオをめぐって仏教界から批判や抗議を受けるなど、公開までに一騒動が発生しました。ですが、興行的には大きな成功を収め、最終的に7億円を超える配給収入や海外での興行収入も得て、それまでの日本の興行記録を塗り替える大ヒットとなりました。

雷蔵のこの文章は、まさに大映京都撮影所で、その大作映画撮影の真最中に記されたものなのです。

京都へ来て太秦を訪れるほどの人なら、多かれ少なかれ映画に関心を持たれているはずである。日本映画史に新しい一頁を記し、その肌に生みの苦しみのシワをきざみ、革命の戦果を輝く皮膚に象徴する人たち、そして昔の秦氏が永々ときずき上げた太秦の歴史を一年足らずで書きかえようという“映画の鬼”を見ることは、決して無駄にはならないと信じている。

雷蔵の死とともに

映画人たちのこうした挑戦はあったものの、映画館の入場者数はその後も増加せず、1965年にはついに3億人台にまで減少します。それでも、映画を愛していた雷蔵は映画に出演し続けましたが、1968年6月に撮影中に下血。検査の結果、直腸がんと診断されます。入退院や手術を繰り返しながら、雷蔵は最期まで現場への復帰を諦めなかったといいます。そして、1969年7月17日、転移性のがんで亡くなりました。

また一方、雷蔵の所属していた大映も業績が徐々に悪化。看板スターであった雷蔵を失った痛手も大きく、1971年12月、ついに倒産となってしまいました。大映の倒産後も大映京都撮影所は分社化され一部は残っていましたが、1986年4月には完全に閉鎖。跡地は今、マンションや太秦中学校の敷地となっています。附近には2カ所に「大映京都撮影所跡地」の碑が建っています。

大映京都撮影所の碑 soulman/photolibrary

▼大映京都撮影所の跡地

出典:市川雷蔵「最近の太秦だより」(日本交通公社出版事業局発行『旅』1961年10月号所収)

文・写真=藤岡比左志

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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