【東京ジャーミイ】東京のなかのイスタンブル(前編)|イスタンブル便り
年明けから約1ヶ月の予定で、東京にいる。
母校の早稲田大学より招かれて、三回のセミナーを行うのが主な目的だ。研究室も宿舎も提供されて、学生時代を過ごした早稲田界隈で生活する。タイムマシンに乗って舞い戻ってきたような、不思議な感じである。
そこで今回は、東京のなかのイスタンブル、と洒落込んで、イスタンブルからきたわたしが見た東京を、描いてみたいと思う。行き先は代々木上原、東京ジャーミイである。
東京ジャーミイは前になんどか訪れたことがある。
それで、特に事前チェックをしていなかった。すると、編集部から電話がかかってきた。「ホームページには、写真撮影には、事前申請が必要、当日の許可は認められない、と書いてありますよ」。
写真が撮れなかったら、フォトエッセイにならないではないか。にわかに不安になり、旧知の千夢さんに問い合わせることにした。彼女は隣接するトルコの政府機関である、ユヌス・エムレ インスティテュートに勤めている。ユヌス・エムレ インスティテュートのことは次回書こうと思っている。
電話の向こうの千夢さんは言った。
「ジャーミ(*1)のことはこちらでは判断できないんですが、週末と祝日に開催される解説ツアーは、とても混雑しますよ。毎回100人くらい人が来るんです。ハラルフードのショップやカフェもあるので、すごくたくさん人がいます。美由紀さんが知っている、昔ののんびりした東京ジャーミイとは、ずいぶん様子が変わっていると思います」
驚いた。最後に訪れた10年ほど前とは、なんという違いだ。千夢さんは、写真が撮りたいなら、ジャーミの広報担当の下山さんと連絡を取るといいですよ、と教えてくれた。
東京ジャーミイに電話する。
トルコ語訛りのある日本語を話す女性が出た。きっとトルコ人だ。見当をつけてトルコ語で話すと、やはりそうだった。下山さんに取り次いでくれた。
「あの、わたし、日本人ですが普段はイスタンブルに住んでいます。イスタンブル工科大学で教鞭をとっています。モスクの建築の写真を撮るご許可をいただきたいと・・・」
「大丈夫ですよ、先生、どうぞお撮りください」
電話口に出てきた下山さんは、わたしが最後まで言いおわらないうちにそう言ってくれた。
東京「ジャーミイ」とは、読者の多くの方にとって耳慣れない言葉かもしれない。これはトルコ語に特殊な表現で、トルコでは、イスラーム教の礼拝所の中でも、金曜礼拝の行われる大規模なものをジャーミ、ミナーレ(光塔)のない小さなものをメスジッドと区別する。アラビア語には「ジャーミ」という言葉はない。
では、わたしたちがふだん使う「モスク」という名称は、どこから来たのか? じつはヨーロッパの言語から転訛されたものだ。つまり日本人は、イスラームの文化を、ヨーロッパのフィルターを通して受け入れたのだ。言葉をめぐる経緯だけで、そんなことがわかる。
東京ジャーミイが、そこをあえて「ジャーミイ」と公称するところに、「ジャーミイ」として直接認識してほしい、できれば日本語に「モスク」でなく「ジャーミイ」として定着してほしい、という意志を、わたしは読み取る。
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東京ジャーミイは、日本で最初のモスクではない。最初は神戸だ。1935年のことである。神戸のモスク(神戸ムスリムモスク)はインド商人やシリア出身のムスリム(イスラーム教徒)が尽力し、建造された。建築家は、チェコ出身のヤン・ヨセフ・スワガー(1885-1969)、横浜のカトリック山手教会や聖路加国際病院の設計にかかわった建築家として知られる。
現在の東京ジャーミイの建物が2代目であるのに対して、神戸のモスクは建設当時の建物が残っており、東京ジャーミイ同様、訪問することができる。建築としては、いろいろな様式の寄せ集め、チェコ人の解釈によるモスクといえる。キリスト教の教会を多く手がけた人物で、宗教建築は得意分野と見られたのだろう。
現在の東京ジャーミイの前身、東京回教礼拝堂は、その3年後、1938年に竣工した。推進したのは、ロシア革命を逃れて日本に移住してきたタタール人のグループだ。リーダー、ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー(1889-1972)が印刷所を設立し、コーランや教科書を印刷した。まずはタタール人子弟のための学校を作ったのだ。その後モスク建設の資金が集められた。設計・施工に当たったのは師田組、日本の宮大工たちが作った初めてのモスクである。
現在の東京ジャーミイの建物の竣工は、2000年。1980年代に最初の建物が老朽化し、取り壊されることになったとき、手を差し伸べたのはトルコ政府だった。建築家はムハッレム・ヒルミー・シェナルプ、現在のモスクは、トルコ政府宗教庁ディヤーナトが運営する。一日五回の礼拝を司るイスラーム教の導師は、トルコ本国から派遣される国家公務員である。
* * *
トルコ語に、ハーミリック、という言葉がある。日本語に訳すなら、いちばんぴったりくるのは、「タニマチ」だろうか。トルコ語でも元は、トルコの国技であるレスリングの闘士を食べさせ、応援する富裕層のことを「ハーミ」とよんだ。「ハーミリック」は、パトロンとしての振る舞い、度量の深さを指す。
東京ジャーミイ建設のいきさつを遠巻きに見たとき、これはトルコの「ハーミリック」だな、と思う。そして同時に、中国西部、ロシア南部から中央アジア、アゼルバイジャン、イラン、ユーラシア大陸一帯に存在する「テュルク系」の民族の、 大きな大きな広がりに、想いを馳せることになる。現在の国境の矩を、はるかに超えたものだ。
タタール人、日本では中国語の韃靼、として世界史の教科書にも登場する。テュルク系の民族である。白い肌に彫りの深い顔だち、金髪碧眼の人も多い。つまり、現在のトルコ共和国にいるトルコ人と身体的特徴が近い(「トルコ人」とは何か、という議論を始めるときりがないので、ここではひとまず置いておく)。そして多くがスンニ派ムスリムである。
タタールは19世紀のロシア文学やバレエの演目などにもよく登場する。ちなみにバレエ「バフチサライの泉」の「バフチサライ」は、トルコ語で「庭のある宮殿」という意味である。つまり、言語もトルコ系なのだ。
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大陸を跨ぐこの「テュルク系」のひろがりは、1938年建造の最初のモスク、東京回教礼拝堂の物語の横糸。そして縦糸は、ロシア革命とイスラーム(当時は中国語起源の「回教」と呼ばれた)をめぐる、日本である。当時の日本の複数の財閥が莫大な資金を出資し、所有者から用地を取得したという。そんな資金がタタール人のちいさなコミュニティのために集まった。設立には、政治結社・玄洋社を組織した頭山満(1855-1944)、政教社の杉浦重剛(1855-1924)、三宅雪嶺(1860-1945)、さらに犬養毅(1855-1932)や大隈重信(1838-1922)らもかかわったという。ここにもまた、日本近代史の足跡が刻まれている。東京回教礼拝堂は、タタール人コミュニティの信仰の場、というだけでなく、さまざまなグループ、さまざまな思惑が複雑に絡み合って出来上がった、政治的な磁場でもあった。
* * *
わたしの娘がイスタンブルのフランス人学校の中等部に通っていた時のことだ。同級生、タリアの家に、家族ぐるみで夕食に招かれた。自家製のトルコ式餃子「マントゥ」をご馳走に、話が弾んだ。
「なんて美味しいんでしょう」。「これは彼女が作ったのよ」
その家族には、ロシア語を話す住み込みのお手伝いさんがいた。
「娘たちが、ロシア語を話せるようになるといいと思って」
ロシア語を話すベビーシッターとして雇われたのが、その女性だった。これはトルコでも珍しい。日本語、イタリア語、トルコ語(パオロ騎士とわたしの共通言語は、トルコ語である)。家庭内で日常的に複数の言語を話すわが家に、親近感を持ってくれたのだろう。彼らの家では、トルコ語、ロシア語、英語が日常的に話されていた(そして、娘たちは学校ではフランス語だった)。
「わたし、タタールなのよ。今まで言っていなかったけど、わたしのおばあちゃん、日本育ちなの」
おもむろに、お母さんのイディルが話しはじめた。イディルのおばあさんは、まさにロシアから日本に移住したタタール人コミュニティの出身だったのだ。東京ジャーミイの前身の、東京回教礼拝堂付属の学校(東京回教学校)に通った人である。
朝鮮戦争の時に、一家で朝鮮半島に移住したこと。戦争が終わったある日、家にアメリカ軍から人がやってきて、こう言われたのだそうだ。
「あなたがたには、二つの選択肢があります。アメリカを選ぶなら、家も、アメリカ国籍も提供する用意があります」
そしてもう一つの選択肢は、トルコだった。トルコを選んだ彼女のおばあさん一家は、そうして一度も行ったことのなかったイスタンブルにやってきた。 そんな大きな歴史と、自分の日常が繋がっている。それを聞いて、鳥肌が立った。小さい頃に日本で育ったおばあさんは、お醤油の味を恋しがった。1960年代、お醤油を手に入れるのがとても難しかったトルコで。
「だから、一度手に入ると、それを大事に大事に、水で薄めたりしながら、みんなで味わったのよ。お醤油や海苔は、わたしにとっても子供の頃の思い出の味なの」
そして、居間の隅に置いてあった大きな長持を見せてくれた。おばあさん一家がロシアから日本へ、日本から朝鮮半島へ、そしてはるばるイスタンブルまでやってきた長持。 安住の地を求めて大陸を転々としながら、その長持の中に入れられて運ばれたのは、どんな思い出の品だったのだろう。
* * *
代々木上原駅を出て、5分ほど歩くと、井ノ頭通り沿いに忽然と、異形の建築が現れる。丸いドームに、鉛筆のようにとんがったミナーレ。わたしにとってはトルコでおなじみのモスクである。だが、それが日本の風景のなかに突然あると、なかなかのインパクトである。
様式的にはオスマン帝国の古典建築(16世紀)が基調だ(職業病だが、建物を見ると眼が自動的に様式分析をしてしまうのである)。規模としては、それほど大きくない(イスタンブルの大規模モスクと比べると、だが)。全体的な雰囲気は、タイルで有名な16世紀のリュステム・パシャ・ジャーミイに似ている。だが、壁の上部に張り付いた「クシュ・エヴィ(鳥の家)」は17世紀の特色、ジャーミ建物入り口左脇の装飾は18世紀のアフメット三世図書館入り口脇のセビル(取水口)の写しだ。
典型的なオスマンの住宅の、ソファ(窓際の壁全体に、クッションなどで居心地よく作った空間)のあるくつろぎ空間。階段を登り、トプカプ宮殿イフターリエ・キョシュキュ(断食明けの食事イフタール用の東屋、またの名を「月見台」)に似せたテラスに出ると、そこがジャーミへの入り口である。
ハット(アラビア文字の書道)、細密装飾画カレムイシ、木彫、螺鈿細工、寄木細工、漆喰で型を取ったステンドグラス。モスク内部は、現代の伝統工芸や芸術分野の粋を集めたカタログさながらである。いろいろな要素が少しずつある。この感じ、何かに似ている。考えていてたどり着いた。そう、万国博覧会のパヴィリオンだ。
モスクの存在自体も、ムスリムの信仰の場であると同時に、日本という(彼らにとっての)異文化のなかで、イスラームの文化を見せる、いわばショウケースとして意識されているように思う。世界のイスラームの国のなかで、モスクが非ムスリムに開かれている国は、むしろ少ない(たとえば、エルサレムの話)。モスクはどんどん開き、見せていく。これは政教分離の国、トルコのモスク運営の特徴のひとつだろう。
訪れる人たちのプロフィールも、タタール人コミュニティのちいさな「信仰の場」としてのかつての雰囲気から、一変している。
「どこから来たんですか?」
「台湾からです」
入り口で、大学生らしき若者3人グループが記念撮影していた。会釈されたので話しかけてみた。
「どうしてここに?」
「なんだか面白そうだから・・・観光スポットとして」
「旅行ですか?」
「僕は東京に住んでいるんですけど、友達二人が訪ねてくれました」
日本語で答えてくれた。
下山さんによれば、モスク訪問者数の内訳は、おおむね世界のムスリム人口に比例しているそうだ。つまり、インドネシアをはじめとする東南アジア人が最多で、インド、パキスタン、バングラデシュ、中東アラブ諸国、トルコ、そして中国・アフリカその他、となる。ちなみに下山さんは日本人ムスリムである。学生時代にスーダンでイスラームと出会って、のちに改宗したそうだ。
今回訪れて驚いたのが、日本人見学者の多さだ。インスタグラムなどのSNSを中心に、日本にいながらにして異国情緒を味わえる、美しいモスクを見たいと若い女性や大学生、高校生に人気なのだそうだ。週末と祝日に開催される日本語ガイド付き見学ツアーには、毎回100人近く参加者が集まる。
ムスリムの食文化の伝統に則ったハラルフードのショップも、大賑わいだった。ムスリムが 豚肉やアルコールを消費しないことは広く知られているが、即席麺やブイヨン、スナック菓子、さらにはお醤油まで、日本の食料品には、 隠し味として豚肉エキスやお酒が意外と入っている。また、豚以外の動物でも、作法に則って屠殺された肉を食べるべきとされる。日本では入手困難なその肉が、ここでは手に入る。そして、ここが肝心だと思うのだが、安価である。
意外に思われるかもしれないが、トルコにいると、「ハラル食品」はことさら標榜されない。すべてが当たり前にハラルだからだ。わたしなど、「ハラル食品」の現状について、日本で知ったほどだ。チャイやロクム、身近なトルコの食品に、シンガポールやマレーシアのカップ麺、そしてブラジル産のお肉まで。商品の産地も、ムスリムのいる、あらゆる国からである。つまり、グローバルに展開している。「小さなトルコ」のような感じを想像していたら、大違いだった。
* * *
東京のなかのイスタンブル。
混雑するジャーミを後にしながら、ほんのひととき、この地にあの長持と一緒にやってきたちいさな少女、在りし日のイディルのおばあさんに思いを馳せた。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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