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『百鬼夜行絵巻』が物語る、飢餓と疫病による“絶望”の記憶

「生」と「死」の距離がとても近かった中世の日本。災害や疫病によって社会が不安で覆われたとき、中世の人々は何を信じ、どのように対処しようとしたのでしょうか。当時の「日記」をもとに、中世の怪異を時代背景とともに解説した書籍『中世ふしぎ絵巻』(西山 克・文/北村さゆり・画)より抜粋してお届けします。

中世ふしぎ絵巻RGB

 室町時代の日本社会は繰り返し災害に襲われたが、いわゆる応仁の乱の直前、寛正年間(1460〜66)に起こった大飢饉は、未曽有の餓死者と疫病による死者を出した。私は、室町時代に制作された謎の絵巻『百鬼夜行絵巻』が、この寛正の大飢饉と何らかのつながりを持っていると考えている。『百鬼夜行絵巻』は当時『妖物絵』と呼ばれており、『妖物絵』は寛正の大災害の記憶を留める絵画であると。

死霊を導くプラットホーム

 その寛正の大飢饉のさなかのことである。東福寺の僧雲泉太極の日記『碧山日録』寛正二(1461)年二月晦日条によると、ある僧が八万四千本の小片の卒塔婆をつくり、京中に放置された死者の上にそれを順次に置いていったところ、最後は二千本しか残らなかったという。誇張のある数字ではあるだろうが、想像を絶する大量の死者が野ざらしになっていたことだけは読み取れるだろう。飢餓と疫病は都を麻痺状態に陥れていた。

 そうした状況のなかで、同年三月から四月にかけて、京都五山の禅院が相ついで死霊救済のための水陸会(すいりくえ)[施食会(せじきえ)]を行った。彼らは施食壇を橋の上に設けた。建仁寺と万寿寺は鴨川にかかる五条橋、相国寺と東福寺と南禅寺は四条橋、天龍寺は嵐山渡月橋の上に。

 想像していただけるだろうか。飢餓・疫病・恐怖・不安・怨嗟……、絶望の淵に沈んだ都の橋の上に、膨大な死者たちのための祭壇が設けられ、香が焚かれ、鉦が鳴らされ、読経の声が響きわたる。河原に散乱した多量の死骸は、衛生状態の悪化を防ぐため、大穴を掘って埋める以外に手立てがなかった。その河原に架けられた橋という装置に、いま祭壇の幡(ばん)が風になびいている。この儀礼が水陸会と呼ばれていることは、南宋時代の中国で広まった死霊救済の儀礼を継承するものとして重要である。非業の最期を遂げた死者たちはこの儀礼の過程で浄化され、菩薩に導かれながら天上に向かう。死者を乗せるという銀河鉄道の始発駅が、都の大橋だったわけだ。そのプラットホームから昇天していくような死者たちの姿を、鮮やかに幻視した人びともいただろう。

 日本の室町時代と対応する中国明代の水陸会では、仏教や道教や民間の神々を招き、様々な死にざまの死者たちを救済するために、極彩色で描かれた多量の絵画を用いた。それらは水陸画と総称されており、その一部は日本にも伝えられている。じつは水陸画やそれに親近性のある絵画に描かれた図像のいくつかは、『百鬼夜行絵巻』の画面にも姿を変えて登場しているのである。

 『百鬼夜行絵巻』諸本のなかで唯一室町時代に描かれた大徳寺真珠庵本の画面には、多種多様な妖物がうごめいているが、そのほとんどは器物の怪として描かれている。生活道具や楽器や法具などが動物や小鬼のような身体を持って活動しているのである。

 こうした器物の怪は『付喪神(つくもがみ)絵巻 *1』にならって付喪神と呼ばれる。しかしこの鬼神の呼び名である「つくも」は、元来は作物という漢字をあてるべきだろうと私は思う。天皇の家政機関に「作物所」という役所があって、天皇や上皇たちが使う調度類を造進するのを仕事にしている。これを「つくもどころ」と呼ぶ。調度類の神だから作物神なのである。

*1:付喪神が調伏され成仏するまでを描く絵巻物

 ただ『百鬼夜行絵巻』の妖物たちがすべて日本産の器物の怪というわけではない。そこには同時代の中国画の影響も見え隠れしている。

中国画の図像

 たとえば大徳寺真珠庵本で謎とされている、巨大な蚤のような形をした赤い奇妙な生き物も、水陸画をソースとしていた可能性がある。中国河北省石家荘に宝寧寺というお寺がある。その水陸道場には儀礼の場に懸けられた百数十幅の水陸画が伝来している。そのうち「大威徳不動尊明王」を描いた画幅に、真珠庵本のそれにも似た奇妙な生き物が現れる。赤い生き物。それは昆虫のような細く繊細な足を持っている。この画幅を左右に反転すると、剣を振り上げる不動尊が、真珠庵本において奇妙な生き物を木槌で打とうとしている小鬼と、構図的に重なってくる。『百鬼夜行絵巻』の図像の謎の一部は、明代水陸画との比較で解けるのである。

 絵師はなぜ、水陸画やそれに親近性のある絵画の図像を借りたのだろう。国際日本文化研究センター所蔵の『百鬼ノ図』には鳥羽僧正(とばそうじょう)の『鳥獣人物戯画』から影響を受けた図像も多い。それら以外に何が必要だったのか。中国画に描かれた日本の宮廷画壇にない新奇な図像に、アーティストとしての遊び心を搔きたてられたのか。それとも水陸画――水陸会の救いを意識したのか。少なくとも『百鬼夜行絵巻』つまりは『妖物絵』は、寛正の大飢饉という未曽有の災害のさなかに遊び呆ける権力者への批判のために描かれたと私は考えている。

 国家と社会を極限状態に追いやった災害の記憶を留める絵画――。膨大な餓死者と病死者を目の当たりにした人びとの、記憶の紡ぎだす物語が、聞こえないか。

©水木プロ

【参考文献】
・東京大學史料編纂所編『大日本古記録 碧山日録 上』(岩波書店)
・小松和彦『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社)
・『宝寧寺明代水陸画』(文物出版社)

 西山 克=文 北村さゆり=画

西山 克(にしやま まさる) 京都教育大学名誉教授
東京都生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得。東アジア恠異学会前代表。著書に『道者と地下人―中世末期の伊勢―』(吉川弘文館)、『聖地の想像力―参詣曼荼羅を読む―』(法蔵館)などがある。

北村さゆり(きたむら さゆり) 日本画家
静岡県生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科修了。宮部みゆき著『三鬼 三島屋変調百物語四之続』(日本経済新聞出版)の表紙を担当するなど幅広く活躍中。

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