帰ってきたヤニグロ音楽祭と巨匠たちの真剣勝負|イスタンブル便り 特別編
来年もう一度、やれるのだろうか。
去年の夏、コロナ下の幸福な巡り合わせから実現した、世界的巨匠たちの音楽祭。州都の名前を、イタリア人でさえ知らないような地方、レストランもない小さな村。イタリアで最も観光化されていない(というのが唯一最大の特徴の)、モリーゼ州。そこが20世紀を代表するチェリストの一人、アントニオ・ヤニグロ(1918-1989)の父祖の地(そして、パオロ騎士の親戚である)という縁で、マエストロたちの個人的な力添えからはじまった。ジラルデッリ家が18世紀の歴史的建造物パラッツォ・タイアフェッリを受け継いだ。パオロ騎士の幼馴染ニコリーノ、村のひとびと、村役場、地方行政区の協力を得て、小さな音楽祭を開いた。
* * *
今年の音楽祭は、7月1日から10日の11日間。会場は、モリーゼ州の、三つの文化遺産だ。ヤニグロ家ゆかりの11世紀の教会、ファイフォリの聖マリア教会(モンターガノ村)、州都カンポバッソ中心部にある20世紀初頭建造のサヴォイア劇場、そしてローマ時代の遺跡、セピーノの円形劇場。 セピーノは、去年のヤニグロ音楽祭の際に、初めてコンサートに開かれた。
低予算・弱小の音楽祭だが、第二回開催のめどは、じつは予想以上に早くについた。前年の音楽祭が終わってまもない9月、村長のジュゼッペから知らせが来た。地方行政区レッジョーネの文化事業補助金の募集が突然発表され、申請締め切りが二日後だというのだ。慌てて申請し、レッジョーネから、2万ユーロの補助金が出た。これに勢いを得て、モンターガノ村からも去年に上乗せして予算が割かれ、地元企業の協賛、個人からの寄付も得られた。
音楽祭は、超一流の巨匠と、次世代の音楽家たちが出会う場にしたい。音楽の経験を通して、地域の文化遺産の存在を地元のひとびとが意識し、価値を高めていくきっかけになれば。
それが開催の願いである。
* * *
今年の目玉は、ザグレブ・ソロイスツである。
アントニオ・ヤニグロが、1953年に現クロアチアの首都・ザグレブに設立した弦楽だけの室内合奏団。 ユーゴスラヴィア(当時)にヴァカンスに出かけたまま第二次世界大戦が勃発、戦争の時期そこに留まらざるを得なかったヤニグロは、のちにザグレブ音楽院の教授となり、この国と深い縁を持った。ヤニグロ自身が1968年まで指揮者兼芸術監督を務めたこの合奏団は、現在まで続いている。
そのザグレブ・ソロイスツを、クロアチアから呼びたい。
三年前に音楽祭を思いついた時、遠い遠い夢として心をよぎったことだった。アメリカに住むアントニオの息子、ダミルの紹介でザグレブ・ソロイスツと連絡が取れ、クロアチア側からも資金協力が得られることになった。なんでも、モリーゼ州に15世紀から続くクロアチアのコミュニティがあり、そこと交流を持ちたいというのだ。 遠いと思っていた夢が思いがけず目の前に現れ始めた。
そして。ヤニグロの遺した楽器(伝グァダニーニ)とザグレブ・ソロイスツとの再会が計画された。アントニオの楽器を現在使用している若手チェリスト、オリバー・ヒューベートをソリストとして迎えることになった。1968年にヤニグロが合奏団と袂を分かって以来の、 歴史的再会である。
* * *
ザグレブ・ソロイスツを創立し、指導した指揮者。そして、晩年演奏しなくなってからは、教育者。アントニオ・ヤニグロには、チェリストという以外にも、様々な顔がある。ヤニグロは、ジュッセルドルフのシューマン音楽院、ザルツブルグのモーツァルテウム音楽院などで教鞭を執り、ユリウス・ベルガー、マリオ・ブルネッロ、トーマス・ベネンガ、アントニオ・メネセス、ジョヴァンニ・ソッリマなど、現在世界の第一線で活躍するチェリストを門下から輩出した。
その弟子の一人が、ヤニグロ音楽祭を全面支援してくれる世界的巨匠、アントニオ・メネセスである。わたしたちとの出会いは2019年夏、イタリア・シエナのキジアーナ音楽院だった。
関係者以外は入れないキージ・サラチーニ宮殿のいかめしいホールでパオロ騎士がモンターガノの写真を見せ、音楽祭のアイデアを聞いてもらった。全面支援するからなんでも言ってくれ、という快諾を得て、今年で三年目。
* * *
三年目ともなると、タイアフェッリ邸の大きな台所で毎日の食事を準備するのも、 慣れてきた。ジラルデッリ家が受け継いだ18世紀の城館、タイアフェッリ邸が、音楽祭の事務局であり、期間中のマエストロたちの滞在先である。レストランもない人口千人の村。巨匠たちの胃袋を預かるのが、女主人たるわたしの役目である。朝・昼・晩の三食を準備し、生活を共にする中で、期せずして巨匠が何を好み、コンサートに向けてどのように自分を整えていくのか、 つぶさに知ることになる。
「わたしの先生は、生涯に二人だけ。ブラジルにいた時の先生と、ヤニグロ。それですべてだ。いまどき、マスタークラスだのなんだの、たくさんの先生に師事することが流行しているけれど、本当にいい先生に出会えたなら、そんな必要はないんだよ」。
折に触れてメネセスから聞くヤニグロ像は、気難しく厳しく、そして父親の慈しみにあふれている。リオデジャネイロ公演でブラジルを訪れたヤニグロに17歳で出会い、頼って行ったドイツ。
「ヤニグロは、本当に身近な存在として意識の中に受け入れてもらうのがとても難しい人物だった。なかなか開いてくれない。そこまで受け入れてくれる弟子の数は、本当に限られていた。だけど、一旦中に入れたなら、惜しみなく与えてくれる、そう、わたしにとっては自分の父親よりも父のような人だったね」。
苦学して、住むところにも食べるものにも苦労していた頃。ブラジルの父親が亡くなった。帰りたい。しかし、旅費さえもない。そこへ何も言わずに旅費を出してくれたのが、ヤニグロだった。メネセスは、そのことを一生忘れない。
「プロフェッショナルな面でも、ここぞというところで、無私の援助をする人だった。」メネセスは言う。
「ミュンヘンコンクールで優勝後、ワシントンDCで重要なコンサートに招かれた。アメリカに行くのも初めてだ。その話をわたしから聞いたヤニグロは、一瞬の躊躇もなく言った。『わたしの楽器を使いなさい』。それでわたしは、師匠のチェロを抱えて、飛行機に乗ったんだ」。
その“楽器”が、今回音楽祭でザグレブ合奏団と再会した、同じチェロである。
10日間の滞在中のある晩、メネセスは、別の街で予定されていた音楽祭関係者の大勢の食事会に行かず、家で静かに過ごしたい、と言いだした。
「ならば、わたしも行かずに家にいます。家でゆっくりしましょう」。
「じゃあその日、オリバーも食事に呼んでもいいかな?」
数日前に村へ到着したオリバーとは、わたしにとってそれが初対面だった。
ヤニグロのチェロを挟んで、世代の違う二人のチェリストは、旧知の間柄だった。かつてメネセスがヤニグロから与えられ、現在はオリバーが弾いているチェロの話。ヤニグロの話。コンクールの話。若い芸術家としての生き方。しみじみとした、美しい晩だった。
* * *
去年に比べて、出演者数も増えた。ザグレブ・ソロイスツの他には、皮切りに若手女性チェリスト、エリカ・ピコッティとギターのジャン・マルコ・チアンパを迎えた。二日目のカンポバッソ市の中心、サヴォイア劇場でのグランド・オープニングは、去年に続きヴァイオリンの世界的巨匠、ボリス・ベルキンで、バッハとモーツァルトのプログラム。中堅女性チェリストのナタリー・クラインによるソロ・リサイタル、そしてメネセスは、ヤニグロ家ゆかりのファイフォリの教会で、ピアノの世界的巨匠、ミケーレ・カンパネッラと初顔合わせのリサイタルを希望した。
* * *
昨夏、オーケストラが村にやってきた晩のことだ。世界的に著名なヴァイオリニスト、ボリス・ベルキンが、突然言い出した。自分にはこの地方に、旧知の友人がいる。できればその人物と会いたい。ピアニストで、以前一緒にイタリアでツアーをしたんだ、と。
総勢14人の夕食会を、翌晩タイアフェッリ邸の台所で 準備したのが去年の話である(メニューは巻き寿司だった)。
巨匠は巨匠を知る。ベルキン先生から引き合わされたその食事会が、カンパネッラとメネセスの出会いとなった。
* * *
7月6日、ファイフォリの聖マリア教会。モンターガノ村にあるヤニグロ家ゆかりの13世紀の教会堂で、チェロのアントニオ・メネセスとピアノのミケーレ・カンパネッラのデュオ・コンサートが実現した。
その前の数日間、カンパネッラとのリハーサルに初めて出かけるまでのメネセスは、とても静かだった。音楽祭の浮き浮きした空気とは距離をおき、部屋にこもっている。チェロの音は毎日欠かさず響くが、長時間静まり返っていることも多い。
突飛な喩えかもしれないが、音楽家同士の出会いは、剣士の立会いに似ていると思う。一期一会、同じ曲を演奏したとしても、二度と同じ手合わせはない。毎回毎回が、まさに真剣勝負、である。剣士と違うのは、相手の隙を突いて倒すことではなく、一緒に最高の瞬間、ほんのひとときを生み出すために、すべてを捧げる、という点だ。その瞬間のために音楽家は、たゆみなく自己を鍛錬し、備える。
本番終了後、祭壇脇に下がった二人の演奏家に、挨拶に行った。
素晴らしい演奏をありがとうございます、と言ったわたしに向かって、カンパネッラは、 ゆっくりと恭しく両手を差し出した。ギョロリと大きな眼をさらに大きくし、わたしの手を掴んでこう言った。
「この出会いを作ってくれたのは、あなたなんですよ。本当にありがとう」。
ついさっきまで目の覚めるような輝きでピアノを響かせていた手の強さが、がっしりとわたしに伝わってきた。
* * *
「彼はいわゆる、昔気質の音楽家だ。今時の流行りからいうと、古い、と言う人もいるような、ね。だけど、わたしがいつでも、何度でも共演したいと思うのは、まさに彼のような音楽家なんだよ」。
最後の晩、麦畑の暗闇を走る車の中で、メネセスはそう語った。
古さ、とは、師匠から弟子へ、直接の関わりから受け継がれる血脈のことだろう。泥や汗の匂いのするその血脈は、クリーンなデジタル時代に反して、というよりも、デジタル時代だからこそ、唯一無二の価値として、これからひときわ輝きを放つことになるだろう。
ヤニグロの音楽の血脈を受け継ぐメネセスの言葉に、そんなことを思った。
* * *
今回の音楽祭、日本からわざわざ聴きに来てくださった方々がいたことも、追記しておこう。日本のヤニグロファンのM氏のお引き合わせにて、メネセスに師事したチェリスト、中木健二氏(東京藝術大学准教授)と繋がった。そして、氏の指導する高校生、劉心語さんがマスタークラスに参加した。
音楽祭が掲げるヤニグロの血脈に、ほんの少しだけ日本のエッセンスを加えることができたのは、喜びである。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
▼この連載のバックナンバーを見る
よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。