[高山祭]絢爛な祭屋台が生まれたワケ(飛騨高山)
高山駅に降り立ち、表に出たとたん清々しい気分に満たされたのは、縦横に走る道路のためだ。定規をあてたように端然としている。道の目指す先の空には山々の緑。駅を背にして歩きはじめた歩幅は、いつもより広くなっていただろう。
朝日が道を照らしている。老紳士が散歩の途中か、さりげなくゴミを拾っている。
「しばらく家族みんなで留守している仲よしの家の前なのでね、戻ったとき汚れとったら気の毒やから」と笑う。
あいさつして別れ、さらに歩くと市内の中央を流れる宮川が見えてくる。穏やかな流れをしばらく見下ろし、橋を渡りきって景色が一変した。しっとりした風情の通りに、版画店、茶道具店、造り酒屋などの看板が連なっている。駅から歩いて触れたそうした景色のすべてに共通するのは静けさだ。山中の湖の清水のような。
年に2回、その清水が地熱によってきらきら沸き立つ日がくる。春は町の南に位置する日枝神社の例祭、山王祭。秋は北に立つ櫻山八幡宮の例祭、八幡祭。ふたつを合わせて高山祭と呼ばれている。
華やぎの象徴は、ずらりとそろう祭屋台だ。春は12台、秋は11台、ほとんどの屋台は、下段、中段、上段と3層の構造である。春秋の空にすっくと立つ長身のシルエットはそれぞれ独自の美術を身にまとう。思わず見入る精細な技巧が施された、彫刻や飾り金具や布地の染織の競演は、だれが言ったか「動く陽明門」。なるほど、絢爛な造形が市中を曳かれてゆくさまがうまく言い当てられている。それにしても山に囲まれた静かな町に、その壮大なきらめきはどう生まれ、どう育ってきたのだろう。
起源は16世紀から17世紀の間という。
秀吉に仕えていた武将・金森長近が飛騨を領国とし大名となったのは1586(天正14)年、およそ100年後に金森氏は転封となり、飛騨は天領となる。木材や鉱物の豊富な資源に江戸幕府が価値を置いていたからといわれる。
金森氏が大名となってすぐに祭屋台は生まれていたともいわれるが、がらりと変えたのは天領だった。江戸の文化が蛇口を開けてほとばしるように流入してきたのだ。江戸っ子を熱くさせていた祭の屋台が飛騨の屋台を発展させていった。
けれども、それがすべてではない。というよりも、それ以前に技の分野の長い歴史がある。飛騨は言わずと知れた匠の国だ。奈良時代に制定された大宝律令で税制が確立したなか、飛騨は特例あつかい。庸や調といった税を免じるかわりに中央政府は、都の造営のために匠の技を提供することを命じた。免税してまでも欲しかったスキルなのだ。万葉集にも「飛騨びとの打つ墨縄」のまっすぐさ、実直さが恋心に寄せて詠まれているように、こつこつといい仕事をする匠は高い評価を受けたにちがいない。平安後期には飛騨匠の徴用は自然消滅したとされるが、それ以後も個人の匠としてのつながりは続いた。奈良、京都の文化は時を超えて地下水のように飛騨匠の技や創作姿勢に流れてきたのだ。こうして高山祭の祭屋台は木工をはじめ、彫り、塗り、飾り、手わざのかぎりを注ぎ込む表現の舞台として伝えられてきた。京都の雅と江戸の粋を吸収して磨きあげ、京風でも江戸風でもない高山風を創出してきたのだ。
櫻山八幡宮の境内に、秋の高山祭・八幡祭の実物屋台を数台ずつ交代に展示している施設がある。「高山祭屋台会館」だ。学芸員の瀬木登美子さんにお会いした。瀬木さんは屋台への愛情と敬意がからだに沁み込んでいる人と感じた。見識も知識もそこから生まれているからだろう、話がとてもわかりやすい。瀬木さんは言う。
「(屋台の)すみずみまで行き渡った手抜きのなさがすごいです。何回見ても、見るたびに新しい発見があります」
文=植松二郎
写真=阿部吉泰(クレジット表記のないもの)
──この続きは本誌でお読みになれます。日本三大美祭のひとつに数えられる高山祭。祭屋台は、飛騨匠が技を表現する舞台としても発展し、高山の旦那衆と「屋台組」の人々がその美しさを支えてきました。第2章では、屋台の修復に携わる現代の匠や、若き担い手たちも登場。さまざまな人生が刻みこまれてきた高山祭を、未来へとつなげる人々の眼差しを記録しています。冒頭には、岐阜県出身の直木賞作家・米澤穂信さんのエッセイも掲載! ぜひお手にとってご覧ください。
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