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6歳で「論語」に出合い、文武両道だった渋沢栄一|大河ドラマ主人公・「日本近代化の父」の素顔に迫る(1)

文・ウェッジ書籍編集室

まだまだコロナ禍の完全な終息には至っていない日本。そんな状況下のいま、100年以上も前に刊行された1冊の本に注目が集まっています。大正5年(1916)に刊行された『論語と算盤』です。
著者は官と民の両方の立場から日本の発展に寄与したことで知られる渋沢栄一。2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもあり、2024年から流通する新一万円札の図柄になることが決定しています。
幕末から昭和初期にかけて500以上の企業の設立にかかわり、600以上の教育・社会事業に携わったとされる渋沢ですが、なぜこれほどの業績を成し遂げることができたのでしょうか?
ここでは栄一の玄孫(5代目)にあたり、コモンズ投信の創業者・会長で、「論語と算盤」経営塾を主宰する渋澤健氏による監訳本の超約版 論語と算盤(ウェッジ刊、2021年1月15日発売予定)から、栄一の言葉を引用しながら、激動の生涯を写真とともに振り返ってみます。

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豪農に生まれ武芸や学問に励む

すべて人は、老い若いにかかわらず、勉強する心を失ってしまえば、とうてい進歩発達するものではない。私は七十四歳の老境に入っても、なお仕事や勉学を怠ることはない。若い人にはおおいに勉強してもらわねばならぬ。怠惰はどこまでも怠惰に終わるものであって、そこからいい結果が生まれることは断じてない。人は、よい勤務努力の習慣をつくらなければならない。(「人生は努力にあり」より現代語抄訳)

 天保11年(1840)、渋沢栄一は武蔵国血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市血洗島)で農家の息子に生まれます。生家は農業や藍の販売にも力を入れていた裕福な農家でした。渋沢家は血洗島村開村期から続く家とされ、天保期には宗家である渋沢家は「中の家(なかんち)」と呼ばれていました。

画像①渋沢生家

旧渋沢邸「中の家」(埼玉県深谷市)

 栄一は6歳の時に父から『論語』や『蒙求(もうぎゅう)』などの中国古典の素読の手ほどきを受けています。7歳頃には父のすすめで、従兄の尾高惇忠(おだかあつただ)のもとで中国古典以外にも、『日本外史』などの書物から歴史を学んでいます。尾高は水戸学の影響を受けた尊王攘夷論者でもあり、栄一も少なからずその影響を受けることになります。

画像②尾高の家

尾高惇忠生家。惇忠は栄一の従兄であり、学問の師でもあった(埼玉県深谷市)

 11歳頃には読書欲が増し、『三国志』や『八犬伝』などを愛読。年始の挨拶回りの際に歩きながら読書をしていたところ、溝に落下して着物を汚してしまい、母に叱られたという逸話が残っています。

 一方で、従兄の渋沢新三郎からは剣術(神道無念流)を学び、14歳までに文武両道を地で行くような生活を送っていました。

藍の買い付けで商才を発揮する

世の中で成功するための要素として、知識・学問が必要なのはもちろんだが、それだけでただちに成功できると思うのは、大きな誤解だ。
要するに、ことは日常生活にある。ゆえに私はすべての人に、普段から勉強を望むのだ。同時に、普段からいろんなことに対する注意を怠らないように心掛けることを強調したい。
(「人生は努力にあり」より現代語抄訳)

 読書好きが嵩じて家業を怠っていると父に叱られた栄一は、やがて家業の手伝いをするようになります。当時の渋沢家が力を入れていたのは藍玉の製造と販売でした。

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花を咲かす藍。血洗島村など利根川沿いの村々で栽培されていた

 のちに一人で藍葉の買い付けを行うようになりますがが、まだ子どもであったため、生産者たちに軽視されることもありました。それでも読書で培った知識を活かし、親のやり方を真似ることで商売がうまくいくようになります。

 連日のように村々を回ることで、やがて生産者たちからの信頼を勝ち取るようになり、父からもその手際を褒められるようになります。

 栄一は17歳になると、信州などの得意先回りを任されるようになります。ある時、藍の出来具合に応じて食事の席次を決めた番付を作成することで生産者たちの競争心を高めることに成功。これが藍の品質向上につなげることになったのです。商売人・栄一の片鱗が見られる一幕でした。

広い見識をもって時勢を理解する

世間では、情報を増やし、時勢を理解しなければならないという。確かにこれは必要なことで、そのためには、学問を修める必要がある。とはいうものの、情報が十分であっても、これを働かさなければ何の役にも立たない。読書のみを学問と思ってはならない。
すなわち勉強してこれを実践することであって、勉強が伴わないと知識もなんの効果ももたらさない。各自ただ一人のためではなく、社会のために、勉強の心掛けが大切である。
(「人生は努力にあり」より現代語抄訳)

 栄一が生家で文武両道に明け暮れ、商売人としての才能を開花し始めたころ、日本を揺るがす一大事件が起こります。嘉永6年(1853)6月、マシュー・ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊の来航です。

 栄一はこの年に江戸に行く機会を得ています。翌年にも江戸を再訪。郷里では尾高惇忠に学ぶ一方で、江戸では、身分の分け隔てなく儒学を教えていた海保漁村(かいほぎょそん)のもとで学びます。

 儒学を通して身につけた経世済民の意識は、のちの尊王攘夷運動や、明治期の商業活動に役立つことになります。また、千葉道場にも足を運び、剣術の研鑽にも努めています。

 黒船来航後の時勢の急速な変化を目の当たりにした栄一は、文武両道の道を歩みつつも、江戸での交友関係をもちながら幅広い知識と教養を得て、最新動向を素早くキャッチする術(すべ)を自然と身につけていたのです。

画像③深谷駅前の銅像

渋沢栄一像。JR高崎線深谷駅北口前の青淵広場にある(埼玉県深谷市)

――渋沢栄一の成功哲学については、超約版 論語と算盤(2021年1月15日発売予定、ウェッジ刊)の中で、監訳者であり玄孫である渋澤健氏によるコメント付きでわかりやすく解説しています。ただいまネット書店で予約受付中です。

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