マガジンのカバー画像

家康名語録

4
今年の大河ドラマで主人公として描かれる徳川家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の川柳で知られるように、幼少期は人質生活を送り、今川から独立しても信長・秀吉の後塵を拝し、な… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

人質は状況に合わせて取るものだ|『超約版 家康名語録』より(4)

人質は状況に合わせて 取るものだ『武功雑記』 家康の時代に始まり、江戸幕府の安定を支えたと考えられるものに証人(人質)制度がある。家康自身も織田や今川の人質だったことがあるのは既に見た通りだ。また、豊臣政権時代にも諸大名らの妻子を人質として取っている。江戸幕府もこのやり方を踏襲し、諸大名とその重臣は妻子や子弟を江戸へ送らせた。 その後、重臣の人質は取らなくなったが、大名の妻子は引き続き江戸に住むことになった。この制度が崩れたのは幕末、文久の改革で参勤交代が緩和された時のこ

捨て城であるなら拾ってしまおう|『超約版 家康名語録』より(3)

捨て城であるなら 拾ってしまおう『三河物語』 大高城を引き払った元康らは、松平氏の菩提寺である大樹寺に入った。本来の本拠地である岡崎城はすぐ目の前だったが、元康は戻ろうとしなかった。岡崎城には今川方の武将が入っていたからだ。 じっと時機を待つ元康の前で、今川方の武将は岡崎城から立ち去っていった。これを見た元康は「捨て城であるなら拾ってしまおう」と言い放ち、岡崎城へ入る。奪い取ったのではない、捨てられたものを拾っただけだ。だから今川方に対して反旗を翻したわけではないのだ、と

噂だけで城を明け渡すなど考えられない|『超約版 家康名語録』より(2)

噂だけで城を明け渡すなど 考えられない『名将言行録』 成長した竹千代は松平元康と名乗り、今川氏に従う武将の一人になった。正室として今川氏の重臣の娘(義元の姪)を迎えており、いよいよ今川氏の勢力に取り込まれた、といえる。しかし、そんな元康に転機が訪れた。義元が桶狭間の戦いで討死したのだ。 この時、元康も三河勢を率いて出陣しており、織田方から奪い取った大高城に入っていた。織田方に包囲されていた大高城を救うために兵糧を運び入れさせたエピソードがよく知られている。 凶報を知らさ

小器用な者ほど大きな智恵を持たない|『超約版 家康名語録』より(1)

小器用な者ほど 大きな智恵を持たない『名将言行録』 これは、家康がまだ幼名の竹千代で呼ばれていた頃、尾張国清須の町で発したとされる名言である。 竹千代は三河国の有力国衆・松平氏の当主で岡崎城主・松平広忠の子としてこの世に生まれた。そんな彼は六歳の頃、駿河・遠江の両国を支配して三河にも強い影響力を持っていた、今川義元のもとへ人質として送られることになったのだ。 では、なぜ尾張にいたのか。実は、三河国田原の城主・戸田康光という人が、送られる最中の竹千代を連れ去り、反対側の尾