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新MiUra風土記

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この連載では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。
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#三浦半島

川崎宿とウチナーの鶴見|新MiUra風土記

川崎宿がことし起立400周年記念を迎えた。東海道五十三次の宿場は神奈川県内に9ヶ所あり、江戸の品川宿から多摩川を渡った最初の宿が川崎だ。 それに合わせたのか今秋、宿場のそばに25階建の川崎市本庁舎の建替えがされて、路面にはレトロな旧市庁舎を復元して高層棟との記憶をつなぎいち早く展望階が市民に公開された。 まずは足下の旧東海道の川崎宿へ。 川崎駅前に近い旧宿場町。通りに風情のある趾を見つけるのは難しいが、観光案内所を兼ねた東海道かわさき宿交流館では昔と現代を対比させ、江戸

水軍三浦党、久里浜から平作川を遡上する|新MiUra風土記

久里浜駅に下りたのは初めてかもしれない。この横須賀線の終着駅は三浦半島最南端のJR駅。特急が発着する少し離れた京急線久里浜駅が利便なので存在感は薄いが、駅舎は横須賀駅と同じ戦前からのいい雰囲気を残している。 ここからより古い幕末の久里浜へ向かおうと黒船のペリー公園へバスに乗った。 変わらぬペリーの上陸記念碑を眺めて、この浜辺でペリー艦隊の海軍兵が行進してる様子を思い浮かべた。演奏するアメリカ国歌は今の「星条旗」(*1)ではなく初代国歌「ヘイル コロンビア」と、愛国歌「ヤン

木古庭、葉山の奥へ|新MiUra風土記

三浦郡の葉山町はマリンスポーツの人気地で、御用邸や保養地文化の歴史もあり「湘南」のイメージを喚起する町だが、それらは海浜なのになぜ地名は葉山なのだろう? その昔、隣の逗子市で過ごした筆者は浜風にあたるだけでも至福にひたれる。やはり海の力はすごいものだ。ただ思えば葉山でも海の側ばかりに居た気がする。 葉山町は相模湾に沿って南北4キロ、大半は山と丘陵で逆コの字形に山地が海に迫っている。山の端、そこで端山から葉山へという説がある(*1)。 葉山のもうひとつのおもしろさはその地

三浦から島根へ、小泉八雲への半島紀聞|新MiUra風土記

明治23年[1890]、憧れの富士山を眺める外国人客を乗せたカナダ船アビシニア号は浦賀水道に入り、そのなかに小柄で隻眼の英国籍の紀行作家ラフカディオ・ハーンがいた。このときハーンはじぶんが日本人で小泉八雲になろうとは思いもしなかったろう。 「まるで何もかも小さな妖精の国のようだ」。上陸した初日本の横浜、鎌倉や江の島での見聞は彼を日本の歴史文化の淵に誘った。そして松江では出雲神話から民俗と怪奇譚に出会い、ハーン流の再話文学をつむいで日本人に遺した。 三浦半島から島根半島へと

いざ鎌倉! 亀の遊歩の大町、材木座|新MiUra風土記

ほんとうは行ってほしくないけど知ってほしい場所がある。とっておきの自分だけのお気に入りの処。 見どころいっぱいの鎌倉は三浦半島の人気地で、曜日にかかわらず鎌倉駅頭には人が多く小町通りは鎌倉一の繁華街になっている。 ただ2年目に入ったこの風土記で鎌倉を歩いたのは一度だけ、やはりオーバーツーリズムが気になる。(*1) 江戸時代も物見遊山の地で知られた鎌倉。(*2)そして中世鎌倉でいちばんにぎわう場所は何処だったのか? 小町があるなら大町もあるはずだ。小町通りのその古名は瀬

富岡、ビーチリゾートと『午後の曳航』の眺め|新MiUra風土記

どこから三浦半島で? どこまでが三浦半島か? この連載をやっていてときどきこう自問することがある。 ~三浦半島とは、藤沢市片瀬海岸から横浜市南部の円海山の北麓を結び、東京湾側の富岡を結んだ線以南をいいます~と明言してくれた本がある。(*1) さらに縄文海進期の神奈川地図には藤沢、平塚、茅ヶ崎市の平野部や川崎市の手前の横浜市鶴見区までが三浦半島の付根に見えていて、僕の脳内MiUra半島はここまで入れているが。 京急富岡駅、さきの本によれば半島北限はこのあたりか。いまは横浜

盗人狩とキリシタン灯篭の湊|新MiUra風土記

地名に惹かれ訪ねた旅がある。その町も土地のことも知らない『地球の歩き方』やインターネットも無い時代だ。 欧州ならウルビーノ、シラクサ、ロードス。中東はアカバ、ジェリコ、ヤッフォ、アレッポ、ディヤルバクル、アレクサンドリア。アジアは大理、カシュガル、基隆、ホイアン、クチン。北米はケチカン、キャンベルリバー、ポートランドか。そこは日本人には馴染みのない場所だったかもしれない。 ここ三浦にも地図で見つけたそんな地名がある。それが盗人狩だった。黒澤明の映画『隠し砦の三悪人』や五社

水道と梅とホタルの里の田浦|新MiUra風土記

京浜急行田浦駅、以前某美術館の街歩きのワークショップ講座でこの駅に集合したことがある。「皆さんここで乗り降りしたことはありますか?」と尋ねるとおよそ三十人のなかで挙手する人がいなかったことを思いだす。田浦はよほど魅力も縁も無い町なのだろうか。 田浦が梅の名所だということは意外に知られていない。神奈川県では小田原の曽我梅林が有名だが。三浦半島最大の田浦梅林(約2,700本)は東京湾を見下ろす丘陵に開花する。そして麓には三つのホタルの里があり、もう一つの顔は水道で、それは近代史

逗子、海を見ていた前方後円墳とヤマトタケルが駆けた路|新MiUra風土記

鎌倉駅をでた横須賀線の車内は一変して乗客がまばらになり、気分が緩んだ。 逗子駅に近づくと左手に片っ曽の山が迎えてくれて、僕のウェルカムゲートになっている。片っ曽の名は断崖の意味で、切り立つこの山には「孫三郎狐」が棲んでいた伝説がある。 駅のホームに下り立つと変わらぬ清々しい浜風が吹いている。駅前の日差しは白くて晴天の蒼さが似つかわしい。 小説「太陽の季節」(石原慎太郎)や「不如帰」(徳冨蘆花)が描いた三浦半島西岸の逗子市は明治から昭和へ、葉山町とともに保養地・別荘別宅地として

黒崎の鼻で、アイルランドと和田義盛を追憶する|新MiUra風土記

ときどきアイルランドの風景が思い浮かぶ。その草原や海岸が見たくなる。荒涼としたアランの島ならばなおいい。孤島の南岸は吹きつける風で、土も積もらない岩と礫の地。何も無いこと、虚無だけど豊かだと感じる光景に包まれたくなるのだ。 三浦半島にもそんな思いが叶う場所がある。黒崎の鼻から荒崎への海と崖。 京急線三崎口駅は、半島遊歩のおなじみの駅。いつもならここでバスを選ぶが、目指す岬には歩いて行く。「東京から電車で1時間あまりでアイルランドが味わえる」と同伴者がいればこう言いふくめよう

藤沢宿の飯盛女と「小鳥の街」|新MiUra風土記

 知ったようでいて知らない町が藤沢だった。  人口の減少がつづく三浦半島の玄関口、藤沢市は増加中で県内の第4位。そして藤沢駅—大船駅間にJR東海道線の新駅ができるという(藤沢域2032年頃)。いま何が藤沢に人を呼んでいるのだろうか?    藤沢はこの東海道線が町の中心部を南北に分け、南は鵠沼や辻堂の湘南ビーチで、あの江の島も藤沢市だ。駅南口にはJRに小田急江ノ島線と江ノ島電鉄の駅舎が集まり、観光客もいて賑わっている。  僕が知るのは、冴えない時代の駅北口だった。藤沢のほん

追浜、トンネルを抜けると海鷲の記憶が|新MiUra風土記

 トンネルだらけの町、横須賀。  鉄道も道路も険阻な山をつらぬき谷戸と湊をつないでくれる隧道。なかでも北端の追浜にはそれがいちばん多く隧道めぐりが町おこしになるという。*  明治以来のタイムトンネルを抜けるとそこは昭和20年以前の追浜だった。改札口をでるとDOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA の蒼い文字が目についた。横浜DeNAベイスターズだ。DOCKは船渠。艦船を造り、修復し再船出させる。近代造船発祥の地の横須賀らしい。追浜には横須賀スタジアムと改名した球

天然うなぎのいた森 小網代|新MiUra風土記

 毎夏、相模の海の入江に奇跡と呼ばれる森を歩いてきた。  初めてその小網代の森を知ったのは、海岸線の魅力を知ってほしいという神奈川県主催の見学船に乗せてもらったとき。  このクルーズは、三浦の南端三崎港から城ヶ島を回遊して、相模湾の油壺沖へと向かうという。僕の思いは、この半島で鎌倉幕府を立ち上げて、ここ油壺の新井城で滅亡した三浦一族にあった。その落日を沖合から追想してみたかったのだ。  航海を終えて、小網代湾のシーボニアマリーナの桟橋に上がると、待っていた案内係が湾の奥

葉山コーストパス|新MiUra風土記

 知り慣れたはずの海町を、視点をかえて歩いてみたら、もうひとつの葉山が見える。 「きょう逗子の駅で天皇陛下を見たよ!!」と興奮ぎみで話したのは大正生まれの母だった。それは昭和40年中頃のこと。当時、天皇が葉山の御用邸へ出かけるのは、原宿駅からお召し列車で逗子へ。その駅頭からは御料車で葉山の一色に向かうと聞いていた。  母が駅で出待ちしていたのか、ただの偶然だったのかは分からない。  母が昭和天皇に拝謁するのは2度目だったが、敗戦をはさんで逗子で天皇と再会したときの気分は