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語りだす奈良 1300年のたからもの(西山厚)

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2014年まで奈良国立博物館で学芸部長をつとめ、正倉院展など100以上の展覧会を運営してきた西山厚さん。その西山さんが、奈良の文化財や史跡、伝統行事などを手がかりに、仏教が根付い…
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金子みすゞのさみしさを想う。──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

今からおよそ100年前、512篇の詩を残し、26歳の金子みすゞさんは、みずから命を絶った。私が一番衝撃を受けた詩は「積つた雪」だった。  上の雪  さむかろな。  つめたい月がさしてゐて。  下の雪  重かろな。  何百人ものせてゐて。  中の雪  さみしかろな。  空も地面もみえないで。 雪の気持ちを想像する。そういう人はほとんどいないと思うが、広い世の中にまったくいないこともないだろう。 しかし、「中の雪」のさみしさにまで、こんなふうに思いをはせる人は、絶対にい

日本で仏教が広まったのは、誕生仏がかわいかったから?──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

もうずっと以前のことになるが、お釈迦さまの生誕地に行ったことがある。 ルンビニー。インドから国境を越え、ネパールに入ってすぐのところだ。国境のしるしに丸太が置かれていたのがなんともいい感じだった。 お釈迦さまが生まれたのは今からおよそ2500年前。 お母さんは、出産のため、実家に戻る途中、ルンビニーの園で休息した。そして、かぐわしい香りのお花を取ろうと右手を伸ばしたら、右脇から元気な男の子が誕生した。お釈迦さまである。 お釈迦さまは、すぐに立ち上がり、七歩あるき、右手

東大寺大仏殿の再建に、源頼朝が尽力したワケ──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

治承4年(1180)12月28日、奈良に攻め入った平重衡は東大寺と興福寺を焼いた。 平家に随わないのは、あとはもう奈良の寺々だけ。平清盛は息子の重衡を奈良へ遣わしたが、焼けと命じたわけではなかった。 東大寺は、大仏殿、講堂、僧房、戒壇、食堂、廻廊、鎮守八幡宮、尊勝院、東南院、真言院など、主な建物のほとんどが焼け、大仏も焼けた。 摂政や関白を歴任した九条兼実は、日記に「悲哀、父母を喪ふよりも甚し。天を仰いで泣き、地に伏して哭く」と悲痛の思いを記している。 大仏が焼かれて

天竺に向かう途上で命を落とした真如親王の夢──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

斉衡2年(855)5月23日、東大寺の大仏の頭が落ちた。相次いだ地震のためと思われる。大仏復興は真如親王が担当することになった。 真如親王は平城天皇の第3皇子で、出家する前は高丘親王といった。 平城天皇が譲位し、弟の嵯峨天皇が即位すると、11歳で皇太子になった。しかし平城上皇が都を京都から奈良に戻そうとして騒動(「薬子の変」)が起きると、皇太子をやめさせられてしまう。 24歳で出家。東大寺に住み、道詮に師事して三論宗を学んだ。さらに空海の弟子にもなった。 大仏の復興に

唐招提寺の鑑真和上像に込められた弟子たちの想い──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

唐招提寺の忍基は、講堂の梁が折れる夢を見た。 眼が覚めた忍基は、これは鑑真和上が亡くなる知らせに違いないと考えた。 いやだ。師がいない世界で生きるのは耐えがたい。鑑真和上は、ほかのどこにもいない、最高の師だった。 弟子たちは、師が生きておられるうちに、肖像を造ることにした。師の姿をこの世に留めるために。 まず、土で師の姿を造る。その上に麻布を漆で何枚も貼り重ねていく。一番上には、師の衣をいただいて着せた。それが終わると、背中に窓を開け、中の土を取り出す。 麻布の上に

命とは、不思議なものだ。──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

今からおよそ2500年前の2月15日の夜、お釈迦さまはインドのクシナガラで亡くなった。見上げれば、天には満月が美しく輝いていた。 それから1500年ほどが過ぎて、平安時代の終わりに西行はこんな歌を詠んだ。  願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ 如月の望月とは2月15日の満月のこと。お釈迦さまが亡くなった日に死にたい。 西行は文治6年(1190)2月16日に亡くなった。この年の2月は、16日が満月だったそうで、この上ない最高の亡くなり方だった。 旧暦の2月

お地蔵さまは地獄まで救いに来てくださる──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

お地蔵さま(地蔵菩薩)はもっとも身近な仏さまだ。 奈良時代には虚空蔵菩薩とセットで造られていた。虚空蔵菩薩は虚空、つまり天を蔵にしており、地蔵菩薩は大地を蔵にしている。そして平安時代には「抜苦与楽」の仏として信仰されるようになる。苦を抜き、楽を与えてくれる仏さま。 やがて、地獄に堕ちた衆生でも救ってくれるという信仰が強くなっていく。 私たちは、生前にどのようなおこないをしたかにより、6つの世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)のどれかに生まれ変わるとされる。 前半の

日本の伝統文化を守った「奈良博」と、その立役者たち──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

奈良国立博物館は、125年前、明治28年(1895)に開館した。当時は、帝国奈良博物館といった。 ところで、もしも明治の初めに流行語大賞があれば、間違いなく「御一新」が選ばれたことだろう。御一新。あらゆるものを新しくする。これまでのものはもういらない。 明治の初めに日本の伝統文化が廃れ、それまで大切にされてきた「古器旧物」(=宝物=文化財)が失われたのは、廃仏毀釈のためではなく、御一新の風潮のためだった。しかし、日本の伝統文化のかけがえのない価値に気づいていた人もいた。そ

日本の仏教は、3人の女性から始まった。──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』

仏教が日本に公式に伝わったのは、『日本書紀』によると、欽明天皇13年(552)のことだった。 百済の聖明王から日本の欽明天皇に、金銅の釈迦仏や経典などが献上され、美しく輝く仏の姿をみた天皇は歓喜した。しかし、「朕、自ら決むまじ」と言って、仏教を日本に正式に入れるかどうかについては、態度を保留した。 蘇我稲目は言った。「よその国々はみな敬っているのに、日本だけが背くのはどうでしょうか」 物部尾興は言った。「蕃神(外国の神様)を入れたら、日本の神々がきっとお怒りになります」