日本の伝統文化を守った「奈良博」と、その立役者たち──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』
奈良国立博物館は、125年前、明治28年(1895)に開館した。当時は、帝国奈良博物館といった。
ところで、もしも明治の初めに流行語大賞があれば、間違いなく「御一新」が選ばれたことだろう。御一新。あらゆるものを新しくする。これまでのものはもういらない。
明治の初めに日本の伝統文化が廃れ、それまで大切にされてきた「古器旧物」(=宝物=文化財)が失われたのは、廃仏毀釈のためではなく、御一新の風潮のためだった。しかし、日本の伝統文化のかけがえのない価値に気づいていた人もいた。その代表が町田久成である。
明治4年(1871)、明治政府は、町田久成の提言に基づき、「古器旧物保存方」を布告した。歴史の証左である古器旧物が、「旧を厭い、新を競う」風潮のなかで散逸し消失している。これを防ぐため、明治政府は、各地にある古器旧物の品目と所蔵者の名を記した台帳を提出させた。
そして翌年、約4か月をかけて、多くの古器旧物をもつ古社寺の調査をおこなった。
この明治5年(1872)は初めての博覧会が湯島聖堂大成殿で開催された年でもある。統括した町田久成には大博物館の構想があったが、その実現は少し先になる。
さて、古器旧物の調査はその後も精力的に続けられた。その中心には、九鬼隆一、フェノロサ、岡倉天心がいた。
フェノロサはこんなふうに書いている。
美術品が、寺僧の無知や貧困により散逸しつつあり、調査と並行して、骨董商の略奪作戦が展開されている。
岡倉天心はこんなふうに書いている。
寺院は美術が何であるかを知らず、保存の必要性、保存方法を知らず、保存の資力もないので、このままにしておくと、数年で日本の名誉である東洋美術品は散失滅亡し、取り返しのつかない事態になる。(中略)宮内省が美術品を採集し、日本美術の全体像を国民に知らせ、研究の便宜を図るべきだ。
明治19年(1886)10月、フェノロサと岡倉天心は欧米の視察旅行に出発した。帝国博物館と美術学校の設置準備のためだった。
このような経緯があって、明治22年(1889)、東京のほか、奈良と京都にも、帝国博物館(宮内省所管)を創ることが定められた。
言うまでもなく、奈良には東大寺や興福寺や法隆寺をはじめとする古いお寺が多く、数えきれないほどの文化財を所有していたが、その頃は、幕府の保護を失って困窮していた。日本の文化財は、木や紙や絹など、脆弱な素材で作られているものが多いので、後世に伝えていくためには、必ず保存修理を施す必要がある。しかし、岡倉天心が書いているように、お寺で対応できる状況ではなかった。
明治30年(1897)、帝国奈良博物館が開館した2年後、「古社寺保存法」が制定された。社寺のすぐれた文化財を「国宝」に指定し、保存経費を国が補助する代わりに、社寺に対して文化財の管理、博物館への出品を義務付けた。
これにより、お寺のすぐれた文化財が、帝国奈良博物館に預けられるようになった。博物館はよい保存環境のもとでそれらを守り伝え、展示公開することでその素晴らしさを多くの人に知ってもらうとともに、必要な修理を博物館の経費でおこない、高額な寄託謝金をお寺に支払った。
法隆寺の高田良信さんが、博物館ができて法隆寺はようやく一息ついたという意味のことを書いておられたが、明治における博物館の役割について、多くの人にもっと知っていただきたいと思う。
明治にお預かりして以来、ずっとそのまま今も博物館にあるものもあって、それを考えると、複雑な気持ちになったりもするが。
(2020年8月5日)
文=西山厚
奈良の仏像や文化の解説に定評のある著者による、エッセイシリーズ第3弾にして完結編。
2014年まで奈良国立博物館で学芸部長をつとめ、正倉院展など100以上の展覧会を運営してきた著者。奈良に息づく様々な文化をわかりやすく、学術的価値のある知られざるエピソードを盛り込んだ講演が大人気です。
本書では、著者がこれまで触れてきた奈良の文化財や史跡、伝統行事などを手がかりに、仏教が根付いた奈良の真髄をやさしく解説。仏像が作られたきっかけ、伝統行事の知られざる意味など、奈良で暮らし、奈良を愛してきた著者ならではの “奈良学” が満載です。
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